出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
バルカン半島の東側,ほぼ現在のブルガリアにあたる地域の古代名。約20の種族が独立抗争していたが,前6世紀から黒海沿岸にギリシア人が植民市を建設,その後ペルシア,マケドニアの一時的支配がつづき,前2世紀以降ローマの侵略にさらされた。ローマはここを対ミトリダテス戦争の重要拠点とみなして,圧力を強め,その将M.ルクルスは,諸種族の抵抗を排して前72年全土を支配した。しかしトラキア諸族の抵抗はやまず,1世紀にローマは動揺をおさえ,北部をモエシア,中南部をトラキアとして属州に組織した。ローマはダキアを征服して北方からの脅威を除き,セルディカ(現,ソフィア),アブリトゥスなどの都市をつくり,軍隊を配備,軍用路を建設し,ローマ支配下で〈平和と繁栄〉が維持された。3世紀後半からゴート族の侵入がはじまり,ローマのダキア放棄後,ドナウ川沿いに防壁がつくられたが,4世紀の西ゴート,5世紀のフン,東ゴートの侵入を防ぐことはできず,6世紀以降に進入したスラブ人,原ブルガリア人によって,東ローマからの独立国家がつくられた(681)。
執筆者:土井 正興
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
バルカン半島の南東部地域。時代によりそのさし示す領域は異なるが,マリツァ川流域のトラキア平原,エーゲ海,黒海に囲まれたギリシア,トルコ,ブルガリアに広がる地域。トラキア人諸族が先住民として住んでいたが,前6世紀以降ギリシア人が植民市を建設し,前2世紀以降ローマが進出し1世紀には属州となった。ビザンツ帝国時代にはバルカン半島で最初にセマ制度が導入された。以後オスマン帝国期も含め帝都の食糧供給地としても重要な位置を占め,中心都市エディルネ,フィリベは繁栄した。1878年ベルリン会議で北部が東ルメリア自治州となると,残された地域がトラキアと呼ばれ,バルカン戦争後東部はトルコ領,西部はブルガリア領となったが,第一次世界大戦後西トラキア南部はギリシア領となった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
突発的に発生し、局地的に限られた地域に降る激しい豪雨のこと。長くても1時間程度しか続かず、豪雨の降る範囲は広くても10キロメートル四方くらいと狭い局地的大雨。このため、前線や低気圧、台風などに伴う集中...