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トロツキー トロツキー Trotskii, Leon

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

トロツキー
トロツキー
Trotskii, Leon

[生]1879.11.7. ロシア帝国,ヤノーフカ
[没]1940.8.21. メキシコ,メキシコシティー
ロシアの革命家。本名 Lev Davidovich Broshtein。ウクライナユダヤ人農家に生まれ,オデッサ大学在学中,革命運動に参加。1898年に逮捕され,1900年シベリア流刑となったが,海外に逃亡,ロンドンでウラジーミル・イリイッチ・レーニンに協力した。

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デジタル大辞泉の解説

トロツキー(Leon Trotskiy)

[1879~1940]ロシアの革命家。本名、レフ=ダビドビチ=ブロンシュテイン(Lev Davidovich Bronshteyn)。ウクライナ生まれのユダヤ人。二月革命ボリシェビキに入党、ペトログラードソビエト議長として十月革命を指導。革命後、外務人民委員・軍事人民委員などを歴任。世界革命論を唱え、一国社会主義を唱えるスターリンと対立。1927年に共産党から除名。のち国外追放。メキシコで暗殺された。著「わが生涯」「ロシア革命史」など。

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百科事典マイペディアの解説

トロツキー

ロシアの革命家,ソ連共産党の指導者。若くして革命運動に参加し,1902年ロンドンに亡命してレーニンと会った。1905年第1次ロシア革命ペテルブルグのソビエト議長。
→関連項目暗殺カルデナスカーロ極左冒険主義スターリン主義ソビエト連邦共産党パルブスブルトンプレオブラジェンスキーリベラロージー

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世界大百科事典 第2版の解説

トロツキー【Lev Davidovich Trotskii】

1879‐1940
ロシア革命の指導者。本名はブロンシテインL.D.Bronshtein。ウクライナ,ヘルソン県のユダヤ人富農の子として生まれ,オデッサ,ニコラエフ実科学校で学ぶうち,革命思想にふれた。1898年1月サークルの仲間とともに逮捕され,シベリアへ流刑された。マルクス主義を本格的に学んだのは逮捕後のことだといっている。流刑地でめざましく思考力と文筆力をつけ,1902年に脱走,ヨーロッパにわたると,レーニンによって社会民主労働党の機関紙《イスクラ》の寄稿者に加えられた。

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大辞林 第三版の解説

トロツキー【Lev Davidovich Bronshtein Trotskii】

1879~1940) ロシアの革命家。一七歳で革命運動に参加、シベリア流刑後ロンドンに亡命。初めメンシェビキに属し、三月革命後ボルシェビキに合同して一一月革命を指導、新政権の外務人民委員(外相)・軍事人民委員(国防相)となる。レーニンの死後、永続革命論を唱えてスターリンら党主流の一国社会主義と対立したため、党を除名され、のち国外追放となって亡命地メキシコで暗殺された。著「ロシア革命史」「裏切られた革命」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

トロツキー
とろつきー
Лев Давидович Троцкий Lev Davidovich Trotskiy
(1879―1940)

本名ブロンシテインБронштейн/Bronshteyn。ロシアの革命家、ソ連共産党指導者で、のち反スターリン主義の理論および運動の指導者。[藤本和貴夫]

革命まで

南ウクライナのヘルソン県でユダヤ人の富裕な入植農民の子として生まれる。オデッサの聖パウロ実業学校に入学、のちニコラエフスクに移って中等教育を終えたが、ここで「南ロシア労働者同盟」を組織、1898年他のメンバーとともに逮捕され、シベリアに流刑された。1902年、国外に脱出し、ロンドンでレーニン、プレハーノフらの編集するロシア社会民主労働党の機関紙『イスクラ』の寄稿者となった。1903年の第2回党大会で党が分裂した際、メンシェビキ(少数派)に属し、レーニンの党組織論を激しく批判する『われわれの政治的任務』(1904)を書いたが、組織的にはボリシェビキ(多数派)とメンシェビキとの中間の立場をとるようになった。[藤本和貴夫]

第一革命と第一次世界大戦期

1905年の革命(第一革命)でいち早く帰国、「ペテルブルグ労働者ソビエト」を指導、のちにその議長となった。彼は、革命のなかでパルブスAlexander Gelfand Parvus(1867―1924)とともに永続革命論を発展させ、『総括と展望』を刊行(1906)してこの革命を総括、体系化した。1905年12月、ソビエトの他のメンバーとともに逮捕され、ふたたびシベリア流刑となったが、途中で国外に脱出、ウィーンを拠点に、アドルフ・ヨッフェらと『プラウダ』紙を発行した。1912年には、レーニンがボリシェビキ派のみで党を再建しようとしたことに対抗するブロックの形成に努めている。1912~1913年のバルカン戦争に新聞特派員として参加、1914年、第一次世界大戦が始まると急進的な反戦国際主義の立場にたち、1915年、反戦派の国際主義者が集まるツィンメルワルト会議に出席、その宣言案を起草した。1917年の二月革命後、5月に帰国、ボリシェビキ党の第6回党大会で同党に入党、中央委員に選出された。その後、革命派の勢力拡大とともにペトログラード・ソビエトの議長に選ばれ、地下潜行中のレーニンとともに十月革命を指導したが、雄弁と大衆の組織力でその右に出る者はないといわれた。
 十月革命後は、ソビエト政府の外務人民委員(外相)として大戦の全交戦国に民主的講和を提案、ブレスト・リトフスクにおける対独講和交渉の団長を務め、ドイツ側の併合的な最後通牒(つうちょう)に「戦争をせず、講和にも調印しない」と宣言したことで知られる。1918年3月から軍事人民委員として赤軍の建設にあたり、また共和国革命軍事評議会議長として、内戦時のソビエト政権防衛の先頭にたった。この間、党政治局員、コミンテルン執行委員などを務めるとともに運輸人民委員(1920~1921)を兼任した。他方、1919~1920年には、労働に軍隊的規律を導入する労働の軍隊化や労働組合の国家化を主張したが、規律引締めの緩和を望む世論を背景とした党内論争で敗れた。[藤本和貴夫]

孤立と国外追放

1923年、レーニンが病気によって政治活動から引退すると、トロツキーの党内における政治的孤立は決定的となり、党生え抜きのジノビエフ、カーメネフ、スターリンの3人組から党反対派として批判され、1925年には軍事人民委員の辞任に追い込まれた。1926~1927年にトロツキーはジノビエフ、カーメネフらと合同反対派を結成したが、スターリン、ブハーリンの連合に敗れ、1927年に党を除名、1928年にはアルマ・アタに国内追放され、さらに1929年に国外に追放された。トロツキーは国外追放後もスターリン主義に反対し続け、『反対派ブレテン』誌(1929~1941)を刊行、コミンテルンの社会ファシズム論、粛清裁判の欺瞞(ぎまん)に反駁(はんばく)するキャンペーンを続けたが、その間、トルコ、フランス、ノルウェーと「旅券のない旅」を続け、1937年メキシコに亡命した。1938年、コミンテルンにかわる第四インターナショナルを創設したが、1940年8月20日、亡命先のメキシコ市で暗殺された。犯人はスターリンの指示を受けたスペイン人、ラモン・メルカデルRamon Mercader(1914―1978)とされる。亡命中、自伝の傑作『わが生涯』(1930)、主著『ロシア革命史』(1931~1933)、ソ連社会を分析・批判した『裏切られた革命』(1937)などを刊行した。文学に対する造詣(ぞうけい)も深く、『文学と革命』(1923)などがある。[藤本和貴夫]
『『トロツキー選集』全12巻14冊・補巻3巻(1961~1968・現代思潮社/オンデマンド版・2008・現代思潮新社) ▽『トロツキー選集』第2期、全21巻(1969~1973・現代思潮社/オンデマンド版・2008・現代思潮新社) ▽『トロツキー著作集』全22巻(1971~ ・柘植書房、柘植書房新社) ▽高田爾郎訳『トロツキー自伝』1、2(1989・筑摩書房) ▽アイザック・ドイッチャー著、田中西二郎・橋本福夫・山西英一訳『武装せる予言者・トロツキー』『武力なき予言者・トロツキー』『追放された予言者・トロツキー』(1964・新潮社/復刊・1992・新評論) ▽菊地昌典著『人類の知的遺産67 トロツキー』(1982・講談社) ▽ジャン・ヴァン・エジュノール著、小笠原豊樹訳『トロツキーとの七年間』(1984・草思社) ▽P・デュークス、T・ブラザーストーン編、志田昇・西島栄監訳『トロツキー再評価』(1994・新評論)』

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世界大百科事典内のトロツキーの言及

【永久革命論】より

…〈永久革命〉という言葉自体はマルクスの1850年3月の共産主義者同盟へのよびかけに由来するが,一般には1905‐06年に定式化されたトロツキーの革命論を永久革命論または永続革命論という。英語ではpermanent revolution。…

【コミンテルン】より

…1922年8月以降,国民党と共産党の間には提携関係が存在していたが(第1次国共合作),反帝反封建闘争の深化とともに,国民党右派と共産党の対立は不可避となっていく。このような事態に対するコミンテルンの対応は,ソ連指導部内の分派抗争とからみ,スターリンは保守的現状維持の立場から,トロツキーに反対して国共合作路線を最後の瞬間まで支持し,蔣介石による反共クーデタ(1927年4月)の成功をみすみす許した。スターリンはついで武装蜂起による権力奪取の極左方針に転ずるが,もはや逆流をおしとどめることはできなかった。…

【スターリン】より

…19年党中央委員会政治局員,組織局員に選出された。また同世代で,赤軍の創始者であるトロツキーと軍事面の指導をめぐり対立した。内戦期からネップ初期の党内論争ではレーニンの支持者として,ブハーリン,トロツキー,シリャプニコフA.G.Shlyapnikovら反対派と対立した。…

【赤軍】より

…赤軍への志願者が本格化するのは,ブレスト・リトフスクにおける交渉(ブレスト・リトフスク条約)の決裂とドイツ軍の侵入に対するソビエト政府の革命防衛の呼びかけの時点であり,大量の志願兵の登録が開始された2月23日は,その後ソビエト陸海軍記念日とされた。1918年3月,トロツキーが軍事人民委員に就任すると,戦闘力強化のため,軍の正規軍化・中央集権化がはかられ,4月には労働者と農民に対して軍事訓練の義務を負わせた。また旧軍将校の登用を行うとともに旧軍将校の反乱防止のため政治コミッサール制を採用,軍の作戦は旧軍将校,政治面はコミッサールという二重指揮系統がとられ,さらに革命後実施されていた指揮官選挙制を任命制に切りかえた。…

【ソビエト連邦】より

…その直後レーニンは発作を起こして廃人となり,1年後に死去した。この間スターリンはジノビエフカーメネフと協力してトロツキー派を抑え込むことに成功した。次いで一国社会主義論を採ったスターリンとブハーリンは提携して,ジノビエフ,カーメネフ派と争い,27年にはトロツキー派とも組んだこの合同反対派を完全に失脚させた。…

【ソビエト連邦共産党】より

…この間レーニンら指導部は外国におり,国内のスターリンらの活動家は地下活動を余儀なくされた。17年の二月革命後,カーメネフ,スターリンらは臨時政府を条件付きで支持する方向にあったが,スイスから帰国したレーニンは四月協議会で〈全権力をソビエトに〉のスローガンのもとに,権力奪取を主張し,またトロツキーらのグループも入党した。ジノビエフらの反対論もあったが,10月25日(西暦の11月7日)の武装蜂起により第2回全ロシア・ソビエト大会は全権力を掌握し,左派エス・エル党も加わった形での革命権力が生まれた。…

【トロツキズム】より

…ロシア革命の指導者の一人トロツキーの思想とそれを実践する運動。思想的には,トロツキズムの柱は永久革命論とソ連国家論の二つからなる。…

【民族資本】より

… 両大戦間期には,社会主義革命を指向する運動と民族資本の主導する民族主義との関係をめぐる理論領域が複雑にからみあっていた。第2回コミンテルン大会におけるM.N.ローイ(1887‐1954)とレーニンとの対立,トロツキーとスターリンとの対立がこの問題把握の難しさを示している。レーニン,スターリンは民族資本の運動を支援することによって,社会主義的勢力の成熟を期待した。…

【ロシア革命】より

…とくにジノビエフカーメネフという古参の大幹部は強く反対し,党外でその態度を表明した。権力掌握への準備は首都ソビエトの議長となったトロツキーの考えで進められ,10月12日反革命からのソビエトの防衛という目的で軍事革命委員会が設置された。この委員会が委員を派遣し,首都の軍事組織を指揮下に収めようとして,軍管区司令部と衝突した。…

【ロシア社会民主労働党】より

… 血の日曜日事件を発端に1905年のロシア革命が始まり,労働者がストライキにより革命で主導的役割を演じると,党内では当面の革命をブルジョア段階のものとするプレハーノフの二段階革命論が疑われ,革命の性格をめぐる論争が始まった。トロツキーは永続革命論(永久革命論)を唱え,レーニンは労農独裁論を打ち出した。革命が10月にペテルブルグのゼネストで頂点に達すると政府は譲歩し〈十月宣言〉で国会開設と自由を約束した。…

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