本名ブロンシテインБронштейн/Bronshteyn。ロシアの革命家、ソ連共産党指導者で、のち反スターリン主義の理論および運動の指導者。
[藤本和貴夫]
南ウクライナのヘルソン県でユダヤ人の富裕な入植農民の子として生まれる。オデッサ(現、オデーサ)の聖パウロ実業学校に入学、のちニコラエフスク(現、ミコライウ)に移って中等教育を終えたが、ここで「南ロシア労働者同盟」を組織、1898年他のメンバーとともに逮捕され、シベリアに流刑された。1902年、国外に脱出し、ロンドンでレーニン、プレハーノフらの編集するロシア社会民主労働党の機関紙『イスクラ』の寄稿者となった。1903年の第2回党大会で党が分裂した際、メンシェビキ(少数派)に属し、レーニンの党組織論を激しく批判する『われわれの政治的任務』(1904)を書いたが、組織的にはボリシェビキ(多数派)とメンシェビキとの中間の立場をとるようになった。
[藤本和貴夫]
1905年の革命(第一革命)でいち早く帰国、「ペテルブルグ労働者ソビエト」を指導、のちにその議長となった。彼は、革命のなかでパルブスAlexander Gelfand Parvus(1867―1924)とともに永続革命論を発展させ、『総括と展望』を刊行(1906)してこの革命を総括、体系化した。1905年12月、ソビエトの他のメンバーとともに逮捕され、ふたたびシベリア流刑となったが、途中で国外に脱出、ウィーンを拠点に、アドルフ・ヨッフェらと『プラウダ』紙を発行した。1912年には、レーニンがボリシェビキ派のみで党を再建しようとしたことに対抗するブロックの形成に努めている。1912~1913年のバルカン戦争に新聞特派員として参加、1914年、第一次世界大戦が始まると急進的な反戦国際主義の立場にたち、1915年、反戦派の国際主義者が集まるツィンメルワルト会議に出席、その宣言案を起草した。1917年の二月革命後、5月に帰国、ボリシェビキ党の第6回党大会で同党に入党、中央委員に選出された。その後、革命派の勢力拡大とともにペトログラード・ソビエトの議長に選ばれ、地下潜行中のレーニンとともに十月革命を指導したが、雄弁と大衆の組織力でその右に出る者はないといわれた。
十月革命後は、ソビエト政府の外務人民委員(外相)として大戦の全交戦国に民主的講和を提案、ブレスト・リトフスクにおける対独講和交渉の団長を務め、ドイツ側の併合的な最後通牒(つうちょう)に「戦争をせず、講和にも調印しない」と宣言したことで知られる。1918年3月から軍事人民委員として赤軍の建設にあたり、また共和国革命軍事評議会議長として、内戦時のソビエト政権防衛の先頭にたった。この間、党政治局員、コミンテルン執行委員などを務めるとともに運輸人民委員(1920~1921)を兼任した。他方、1919~1920年には、労働に軍隊的規律を導入する労働の軍隊化や労働組合の国家化を主張したが、規律引締めの緩和を望む世論を背景とした党内論争で敗れた。
[藤本和貴夫]
1923年、レーニンが病気によって政治活動から引退すると、トロツキーの党内における政治的孤立は決定的となり、党生え抜きのジノビエフ、カーメネフ、スターリンの3人組から党反対派として批判され、1925年には軍事人民委員の辞任に追い込まれた。1926~1927年にトロツキーはジノビエフ、カーメネフらと合同反対派を結成したが、スターリン、ブハーリンの連合に敗れ、1927年に党を除名、1928年にはアルマ・アタに国内追放され、さらに1929年に国外に追放された。トロツキーは国外追放後もスターリン主義に反対し続け、『反対派ブレテン』誌(1929~1941)を刊行、コミンテルンの社会ファシズム論、粛清裁判の欺瞞(ぎまん)に反駁(はんばく)するキャンペーンを続けたが、その間、トルコ、フランス、ノルウェーと「旅券のない旅」を続け、1937年メキシコに亡命した。1938年、コミンテルンにかわる第四インターナショナルを創設したが、1940年8月20日、亡命先のメキシコ市で暗殺された。犯人はスターリンの指示を受けたスペイン人、ラモン・メルカデルRamon Mercader(1914―1978)とされる。亡命中、自伝の傑作『わが生涯』(1930)、主著『ロシア革命史』(1931~1933)、ソ連社会を分析・批判した『裏切られた革命』(1937)などを刊行した。文学に対する造詣(ぞうけい)も深く、『文学と革命』(1923)などがある。
[藤本和貴夫]
『『トロツキー選集』全12巻14冊・補巻3巻(1961~1968・現代思潮社/オンデマンド版・2008・現代思潮新社)』▽『『トロツキー選集』第2期、全21巻(1969~1973・現代思潮社/オンデマンド版・2008・現代思潮新社)』▽『『トロツキー著作集』全22巻(1971~ ・柘植書房、柘植書房新社)』▽『高田爾郎訳『トロツキー自伝』1、2(1989・筑摩書房)』▽『アイザック・ドイッチャー著、田中西二郎・橋本福夫・山西英一訳『武装せる予言者・トロツキー』『武力なき予言者・トロツキー』『追放された予言者・トロツキー』(1964・新潮社/復刊・1992・新評論)』▽『菊地昌典著『人類の知的遺産67 トロツキー』(1982・講談社)』▽『ジャン・ヴァン・エジュノール著、小笠原豊樹訳『トロツキーとの七年間』(1984・草思社)』▽『P・デュークス、T・ブラザーストーン編、志田昇・西島栄監訳『トロツキー再評価』(1994・新評論)』
ロシア革命の指導者。本名はブロンシテインL.D.Bronshtein。ウクライナ,ヘルソン県のユダヤ人富農の子として生まれ,オデッサ,ニコラエフの実科学校で学ぶうち,革命思想にふれた。1898年1月サークルの仲間とともに逮捕され,シベリアへ流刑された。マルクス主義を本格的に学んだのは逮捕後のことだといっている。流刑地でめざましく思考力と文筆力をつけ,1902年に脱走,ヨーロッパにわたると,レーニンによって社会民主労働党の機関紙《イスクラ》の寄稿者に加えられた。しかし同党の分裂ではレーニンの組織論に強く反発し,《われわれの政治的任務》(1904)を書いた。1905年ロシアで革命がおこると,パルブスとともに永久革命論を構築し,国内にもどり,ペテルブルグ・ソビエトの中心的指導者となった。永久革命論は《総括と展望》(1906)に定式化されている。ソビエトのメンバーとともにシベリアへ流刑された彼は,ふたたび脱走した。レーニンが12年プラハ協議会を開き,自党づくりをすすめると,これに反対する諸派を糾合し,同年8月ウィーン協議会を開いた。しかし,第1次世界大戦中には,急進的な戦争反対の立場をとり,レーニンの敗戦主義には同調しなかったが,反戦派の糾合に尽力した。1917年の二月革命直後アメリカを出発し,ようやく5月にロシアにもどった。第6回党大会でボリシェビキ党に入党し,ペトログラード・ソビエト議長として十月革命の作戦立案と実行にあたった。このときレーニンとは表裏の関係であった。革命後は外務人民委員(外相)となり,全世界に講和を提議し,のちブレストでの対独講和交渉(ブレスト・リトフスク条約)の初代全権代表をつとめた。18年3月,軍事人民委員に転じ,内戦の中で赤軍の創設・強化に尽力した。19-20年には,労働の軍隊化,労働組合の国家化を主張し,党内論争を招いたが,22年の〈レーニン最後の闘争〉(スターリンとの)ではもっとも近い同盟者となった。
トロツキーは,高い知性に強い決断力,演劇的なアピール力とを合わせもったまれにみる個性であったが,官僚的日常性への適応力は乏しかった。しかも党内ではよそ者であった。23年レーニンが完全に廃人になったあと,ジノビエフ,カーメネフ,スターリンの党はえぬき三人組と対立し,反対派として批判され,25年には軍事人民委員も解任された。こんどはジノビエフらがブハーリン,スターリンの〈一国社会主義論〉と闘うのを一時傍観していたが,年末にはジノビエフらと合同反対派をつくった。結局,党を除名され,28年1月アルマ・アタ(現アルマトゥイ)へ流刑され,さらに29年2月国外追放処分を受けた。はじめトルコのプリンキポ島に住み,回想《わが生涯》(1930),主著《ロシア革命史》(1932)を書いた。政治的には,ナチズムの危険に警鐘をならし,コミンテルンの社会ファシズム論を批判していたが,ソ連体制批判も強まり,36年ノルウェーで《裏切られた革命》(1937)を書いた。同時にコミンテルンに代わるべき第四インターナショナル創設のために活動した。37年メキシコに移り,旧同志と彼をゲシュタポの手先としたモスクワ裁判に反駁するキャンペーンを行った。スターリンの憎しみは深く,40年8月20日,その手先によって自宅書斎で殺された。このときの血に染まった原稿《スターリン》(1946)が遺著。他に《文学と革命》(1923),《若きレーニン》(1925)がある。
執筆者:和田 春樹
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1879~1940
ロシアの革命家,ソ連共産党の指導者。ユダヤ人。労働運動に参加し,1898年シベリアに流刑。第2回党大会ではメンシェヴィキに属す。1905年革命でペテルブルク・ソヴィエト議長を務め,翌年永続革命論を展開した『総括と展望』を著した。二月革命後帰国し,ボリシェヴィキ党に入党,ペトログラート・ソヴィエト議長として十月蜂起を指導した。革命後外務人民委員,陸海軍人民委員を務めたが,23~24年に党主流と対立,失脚した。26~27年にはジノヴィエフらと合同反対派をつくり,27年党を除名,29年国外に追放された。国外で第4インターナショナルを組織し,コミンテルンとソ連批判を展開し,メキシコで暗殺された。
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…〈永久革命〉という言葉自体はマルクスの1850年3月の共産主義者同盟へのよびかけに由来するが,一般には1905‐06年に定式化されたトロツキーの革命論を永久革命論または永続革命論という。英語ではpermanent revolution。…
…1922年8月以降,国民党と共産党の間には提携関係が存在していたが(第1次国共合作),反帝反封建闘争の深化とともに,国民党右派と共産党の対立は不可避となっていく。このような事態に対するコミンテルンの対応は,ソ連指導部内の分派抗争とからみ,スターリンは保守的現状維持の立場から,トロツキーに反対して国共合作路線を最後の瞬間まで支持し,蔣介石による反共クーデタ(1927年4月)の成功をみすみす許した。スターリンはついで武装蜂起による権力奪取の極左方針に転ずるが,もはや逆流をおしとどめることはできなかった。…
…19年党中央委員会政治局員,組織局員に選出された。また同世代で,赤軍の創始者であるトロツキーと軍事面の指導をめぐり対立した。内戦期からネップ初期の党内論争ではレーニンの支持者として,ブハーリン,トロツキー,シリャプニコフA.G.Shlyapnikovら反対派と対立した。…
…赤軍への志願者が本格化するのは,ブレスト・リトフスクにおける交渉(ブレスト・リトフスク条約)の決裂とドイツ軍の侵入に対するソビエト政府の革命防衛の呼びかけの時点であり,大量の志願兵の登録が開始された2月23日は,その後ソビエト陸海軍記念日とされた。1918年3月,トロツキーが軍事人民委員に就任すると,戦闘力強化のため,軍の正規軍化・中央集権化がはかられ,4月には労働者と農民に対して軍事訓練の義務を負わせた。また旧軍将校の登用を行うとともに旧軍将校の反乱防止のため政治コミッサール制を採用,軍の作戦は旧軍将校,政治面はコミッサールという二重指揮系統がとられ,さらに革命後実施されていた指揮官選挙制を任命制に切りかえた。…
…その直後レーニンは発作を起こして廃人となり,1年後に死去した。この間スターリンはジノビエフ,カーメネフと協力してトロツキー派を抑え込むことに成功した。次いで一国社会主義論を採ったスターリンとブハーリンは提携して,ジノビエフ,カーメネフ派と争い,27年にはトロツキー派とも組んだこの合同反対派を完全に失脚させた。…
…この間レーニンら指導部は外国におり,国内のスターリンらの活動家は地下活動を余儀なくされた。17年の二月革命後,カーメネフ,スターリンらは臨時政府を条件付きで支持する方向にあったが,スイスから帰国したレーニンは四月協議会で〈全権力をソビエトに〉のスローガンのもとに,権力奪取を主張し,またトロツキーらのグループも入党した。ジノビエフらの反対論もあったが,10月25日(西暦の11月7日)の武装蜂起により第2回全ロシア・ソビエト大会は全権力を掌握し,左派エス・エル党も加わった形での革命権力が生まれた。…
…ロシア革命の指導者の一人トロツキーの思想とそれを実践する運動。思想的には,トロツキズムの柱は永久革命論とソ連国家論の二つからなる。…
… 両大戦間期には,社会主義革命を指向する運動と民族資本の主導する民族主義との関係をめぐる理論領域が複雑にからみあっていた。第2回コミンテルン大会におけるM.N.ローイ(1887‐1954)とレーニンとの対立,トロツキーとスターリンとの対立がこの問題把握の難しさを示している。レーニン,スターリンは民族資本の運動を支援することによって,社会主義的勢力の成熟を期待した。…
…とくにジノビエフとカーメネフという古参の大幹部は強く反対し,党外でその態度を表明した。権力掌握への準備は首都ソビエトの議長となったトロツキーの考えで進められ,10月12日反革命からのソビエトの防衛という目的で軍事革命委員会が設置された。この委員会が委員を派遣し,首都の軍事組織を指揮下に収めようとして,軍管区司令部と衝突した。…
… 血の日曜日事件を発端に1905年のロシア革命が始まり,労働者がストライキにより革命で主導的役割を演じると,党内では当面の革命をブルジョア段階のものとするプレハーノフの二段階革命論が疑われ,革命の性格をめぐる論争が始まった。トロツキーは永続革命論(永久革命論)を唱え,レーニンは労農独裁論を打ち出した。革命が10月にペテルブルグのゼネストで頂点に達すると政府は譲歩し〈十月宣言〉で国会開設と自由を約束した。…
※「トロツキー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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