ドラクロア(英語表記)Delacroix, (Ferdinand-Victor)Eugène

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ドラクロア
Delacroix, (Ferdinand-Victor)Eugène

[生]1798.4.26. シャラントン・サン・モーリス
[没]1863.8.13. パリ
フランス,ロマン派の代表的画家。 1816年エコール・デ・ボザールに入学,ピエール・ゲランに絵を学び,ルーブル美術館ルーベンスベロネーゼを研究。またイギリス文学,特にシェークスピアバイロン,ウォルター・スコットに親しみ,ロマン主義的傾向を確立した。なお 1822年サロンに出品した『地獄のダンテとウェルギリウス』 (ルーブル美術館) ,1824年の『キオス島の虐殺』 (同) は激しい動勢の表現によって古典派の形式主義に対する挑戦を示すものであった。ジョン・コンスタブル色彩に刺激され,1825年イギリスに渡り,リチャード・ボニントン,トマス・ロレンスらの画家と交わり,その影響を受けた。 1832年アルジェリア,スペイン,モロッコを旅行し,明るい色彩と風物に感銘を受け,補色並置による独自な彩色技法を確立した。この期の代表作に『アルジェの女たち』 (1834,同) がある。その他ルーブル宮殿アポロンの間の天井面 (1850~51) などの壁画や『ファウスト』などの石版画,日記,芸術論を残した。

ドラクロア
Delacroix, Henri

[生]1873.12.2. パリ
[没]1937.12.3. パリ
フランスの心理学者。モンペリエ,カン両大学を経て,1909年ソルボンヌ大学教授。科学的心理学が感覚の働きを主要テーマとしていたのに反対し,ベルグソンの影響下に内省的方法によって宗教,言語,芸術創作など高度の精神活動を研究した。主著『神秘主義の心理学』 La psychologie du mysticisme (1908) ,『言語と思考』 Le langage et la pensée (24) ,『芸術心理学』 Psychologie de l'art (27) 。

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百科事典マイペディアの解説

ドラクロア

フランス,ロマン主義絵画の代表的画家。パリ近郊のシャラントン生れ。ゲランの門下であるが,師よりもルーベンスベロネーゼら過去の大家に多くを学んだ。1822年《ダンテの舟》(ルーブル美術館蔵)でサロンにデビュー,次いで1824年には《キオス島の虐殺》(同美術館蔵)を発表し,反古典主義の旗手となった。1825年英国,1832年モロッコに旅行。後者はドラクロアの芸術にオリエンタリズムの傾向をもたらした。作品は文学的な題材に想を得たものが多いが,モニュメンタルな宗教画や歴史画,あるいは肖像画,動物画もよくし,また版画にも傑作が多い。日記および芸術論も残している。代表作に《民衆を導く自由の女神》(1830年,ルーブル美術館蔵),《サルダナパロス王の死》(1828年,同美術館蔵),《アルジェの女たち》(1834年,同美術館蔵),《ファウスト》(1828年)および《ハムレット》(1834年―1864年)のためのさし絵(石版画)などがある。
→関連項目アングルオルセー美術館クールベコンスタブルシャセリオーショパンセザンヌデュフレーヌナダールベルリオーズボードレール

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世界大百科事典 第2版の解説

ドラクロア【Eugène Delacroix】

1798‐1863
フランスの画家。フランス革命で活躍し,政府高官を務めたシャルルを父に,著名な家具師エーベンŒbenの娘ビクトアールを母にもったが,本当の父親はタレーランだとする説が今日では有力である。若くして両親を失ったが,リセ・アンペリアルで古典の基礎を身につけ,1815年ゲランGuérinのアトリエにはいり,年長のグロやジェリコーと知り合う。翌年エコール・デ・ボザール(国立美術学校)に入学するが,師の教えよりもルーブルでの模写から多くを学び,ルーベンス,ベネチア派の躍動感と色彩の純粋さを賛美する。

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大辞林 第三版の解説

ドラクロア【Eugène Delacroix】

1798~1863) フランスの画家。フランス-ロマン主義の代表的存在。強烈な色彩を使って律動的で力強い激情表現を行い、印象主義・象徴主義など、のちの近代絵画の先駆となった。版画にもすぐれ、また日記・評論・書簡も多く残した。

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世界大百科事典内のドラクロアの言及

【アングル】より

…また裸体画や歴史画なども多く試み,ラファエロ研究の集大成である宗教画《ルイ13世の誓い》を仕上げて,24年パリのサロンに出品,この年帰国する。このサロンは,弱冠26歳のドラクロアの《キオス島の虐殺》が賛否両論の渦に巻きこまれた年であり,折から帰国のアングルと対抗する形になり,以後両者はよきにつけあしきにつけロマン主義対新古典主義の両旗手として,画壇を二つに割るほどのライバルと見なされるようになった。間もなくレジオン・ドヌール勲章を受け,美術アカデミー会員に選ばれ,アトリエを開く。…

【印象主義】より

…バランシエンヌPierre‐Henri de Valenciennes(1750‐1815)はその著《実用遠近法入門》(1800)で,戸外の自然のあらゆる季節,時間,光の状態を分析したのみならず,自ら雲や,山を覆う霧などをごく短時間にとらえた油彩スケッチを残した。このようにスケッチの段階ではかなり早くから明るい戸外の光を見えるままに描き出す努力がなされていたが,それを実際の完成作品に,部分的ではあるが応用したのがドラクロアである。彼はベネチア派の研究を通じて明るい色彩を追求し,色彩を特に明るく見せるために補色を色斑で並べる工夫を行った(一説にはコンスタブルの影響を受けたためといわれる)。…

【オリエンタリズム】より

…音楽では,モーツァルトの《後宮よりの誘拐》(1782)のトルコ趣味が早い例で,後にはベルディの《アイーダ》(1871初演)のような,エジプト風俗に関してかなり歴史的考証を経たものも見られる。美術の分野では,ロマン主義の代表者ドラクロアの《アルジェの女たち》(1834),《ミソロンギの廃墟に立つギリシア》(1826)などが東方への熱い思いを伝えるが,アングルのような新古典主義の画家による《グランド・オダリスク》(1814)など,ロマン主義に限らず幅広い層の関心をあつめた。後の世代のシャセリオー,フロマンタン,ジェロームなどへと,時代が下ってゆくにつれ,単なるエロティシズムや浅薄な好奇心を満たすだけに終わり,しだいに新鮮さと力を失っていった。…

【ファウスト】より

…多くの音楽家もまたそれぞれ重要なファウストをテーマとする作品によってこの伝説を一般化するのに貢献した。絵画ではドラクロア(1825)がファウストの最も情熱的な解釈者として有名である。 マーローのファウスト劇は,民衆本の茶番的要素が多く含まれているが,権力への意志と容赦なき罰との間の悲劇となっている(《フォースタス博士》)。…

【ロマン主義】より

… しかしながら,これらの画家たちは,主題の扱い方においては新しいロマン主義的傾向を強く見せているが,表現様式においては,なお多くの点で,古典主義の伝統を受け継いだ新古典主義の枠内にあった。上に挙げた画家たちのうち,ゴヤは晩年の〈黒い絵〉シリーズにおいて,ターナーは後半生の輝くような色彩表現において新しい方向に向かっていくが,新古典主義とはまったく別のロマン主義の表現様式を確立したのは,フランスのドラクロアである。ドラクロアは,先輩のジェリコーが劇的な内容の《メデューズ号の筏》(1817)において人びとに強い衝撃を与えたその後を受けて,《ダンテの小舟》(1822),《キオス島の虐殺》(1824),《サルダナパロス王の死》(1827‐28)等によって,1820年代にはっきりとロマン主義絵画の旗手となった。…

※「ドラクロア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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