ナウマン(読み)なうまん(英語表記)Bruce Nauman

デジタル大辞泉 「ナウマン」の意味・読み・例文・類語

ナウマン(Edmund Naumann)

[1854~1927]ドイツの地質学者。明治8年(1875)日本政府に招かれて来日、同18年帰国まで東大で地質学を教授。日本列島の地質構造を調査し、フォッサマグナによって東北日本と西南日本に分け、西南日本を中央構造線によって内帯・外帯に分けた。

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精選版 日本国語大辞典 「ナウマン」の意味・読み・例文・類語

ナウマン

  1. ( Edmund Naumann エドムント━ ) ドイツの地質学者。東大の初代地質学教師。明治八年(一八七五)来日。本州・四国・九州の地質調査に従事し、日本列島の地質構造の概略を明らかにした。化石種のナウマン象は彼の名に由来する。主著「日本列島の構造論」。(一八五四‐一九二七

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ナウマン」の意味・わかりやすい解説

ナウマン(Bruce Nauman)
なうまん
Bruce Nauman
(1941― )

アメリカの美術家。インディアナ州フォート・ウェインに生まれる。ウィスコンシン大学で数学と美術を学び、カリフォルニア大学大学院でさらに美術を学んでいる。

 大学院在学中の1965年に繊維ガラス、ゴム、フェルトなどによる一連の立体作品をつくりはじめた。『無題』と題された65~66年の多くの作品は、壁や床といった支持体にシンプルなかたちをゆだねて、空間やマテリアルとの関係性を探るサイトスペシフィック(特定の場所と分かちがたく結びつく美術作品の特徴)な作品が主流だった。それは、ロバート・モリスの、フェルトを切り刻んで一部を針金で吊り上げるようなインスタレーション作品『無題』(1967~68)と類似点がみられる。その後、身体の一部を型どりしたゴム製の作品やスタジオ内で1人で行う『蛍光灯管を操る』(1969)などのパフォーマンスのビデオを制作した。70年代に入って、ミニマル作品が主流だったアート・シーンからは距離をおくようになり、より人間探求や身体の問題に傾倒し、それを作品化していった。たとえば潜伏、混乱、封印といった問題を考察するために、限られた出入口しかない廊下を模した細長い空間を用いて『ライブ・テープト・ビデオ・コリドール』(1968~70)、『ダブル・ウェッジ・コリドール』(1970~74)などのインスタレーションを行った。

 80年代は、鉄製のフレームの中央に椅子を宙吊りにする『死と同調する椅子があるダイヤモンド・アフリカ』(1981)など、社会にはびこる暴力や抑圧に対する恐怖をテーマにした作品を、政治的なメッセージをこめて制作した。この作品は、政治的な迫害者を象徴するものとして、その後もバリエーションを増やしてたびたび制作された。その後、日常の攻撃的な行為を映すビデオ作品『暴力的なできごと』(1986)を発表した。このころから『アメリカン・バイオレンス』(1981)など、ネオンサインで描いた言葉を用いた作品も数多く発表された。ネオンサインを使った作品では、1971年に『イート(食)/デス(死)』という作品を初めて制作している。この時期の代表作『グッド・ボーイ/バッド・ボーイ』(1986、87)では100のシンプルな文章が使われている。同名タイトルの、男女が速度や抑揚を違えてそれらのテキストを読み上げるビデオ・インスタレーションもある。

 このようにナウマンの作品は、立体、ネオン、ビデオ、インスタレーション、パフォーマンス、テキストなど多岐にわたるメディアを駆使して制作されている。その背景には、人間の根源的な行為に対する興味から、社会のなかで個人がどのような態度を取って活動したり、体験したりするのか、といった基本的な問題の探求がある。それは「生/死」といった人間が避けることのできないテーマの考察につながっているのである。

 ドクメンタ9(カッセル、1992)、ベネチア・ビエンナーレ(1995、1999)、サン・パウロ・ビエンナーレ(1998)など国際展に数多く出品。またベルギー、アイルランド、オランダ、オーストリア、イギリス、イスラエルを巡った「ブルース・ナウマン回顧展」(1993~95)、パリ、ロンドン、ヘルシンキを巡回した個展「Image/Text」(1997~98)など、多彩な展覧会を開催している。

[嘉藤笑子]

『Coosje van BruggenBruce Nauman(1988, Rizzoli, New York)』『Robert C. Morgan ed.Bruce Nauman(2002, Johns Hopkins University Press, Baltimore/London)』『Nauman, Kruger, Jaar(catalog, 2002, Daros Services, Zürich)』


ナウマン(Edmund Naumann)
なうまん
Edmund Naumann
(1854―1927)

ドイツの地質学者。ザクセンのマイセンで生まれる。ミュンヘン大学で学位を取得した。日本政府から東京開成学校(東京大学の前身)の鉱山学科に招かれたが、1875年(明治8)来日のとき鉱山学科は廃止されていて、金石取調所で和田維四郎(わだつなしろう)と鉱物の調査にあたった。1877年に東京大学が創設され、地質学担当の教授となった。和田とともに建言していた地質調査所が1879年に設立されるとここに移り、1885年の辞職まで地質調査の指導にあたった。日本への地質学の導入、地質調査事業の開始に果たした功績は大きい。日本の地質を初めてまとめ世に紹介した『日本列島の構成と生成』(1885)の著書がある。とくにそのなかで、フォッサマグナによる東北、西南日本の区分、本州を通じて走る「中央割れ目帯」(西南日本のものはのちに中央構造線とよばれた)による内、外帯の区分などの地体構造区分の研究は、大きな影響を日本に残した。ナウマンゾウは彼を記念して命名された。

[木村敏雄 2018年8月21日]


ナウマン(Joseph Friedrich Naumann)
なうまん
Joseph Friedrich Naumann
(1860―1919)

ドイツのプロテスタント神学者、政治家。ウィルヘルム2世の治下において国民主義と社会主義を結び付けようとする国民社会連盟を結成したが、1903年の総選挙に敗北してから進歩人民党に加わり、国会議員(1907~1912、1913~1918)を務めた。1919年にドイツ民主党の党首となり、知識人の間に多くの知己を得た。ワイマール憲法の作成にも努力したが、彼の根本思想は、ドイツを中心とする中央ヨーロッパの統合で、ウィルヘルム2世の世界政策とは別の形において「リベラル・インペリアリズム」を表したものである。

[西村貞二]

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改訂新版 世界大百科事典 「ナウマン」の意味・わかりやすい解説

ナウマン
Edmund Naumann
生没年:1854-1927

ドイツの地質学者。B.S.ライマンとともに日本に最初に地質学を導入し,日本の地質をまとめヨーロッパに紹介した。ドイツ,ザクセンのマイセン生れ。ミュンヘン大学で地質学を学び,1874年学位を得,バイエルン鉱山局地質課に勤務中,ミュンヘン大学教授で上司だったギュンベルCarl Wilhelm von Gümbel(1823-98)の勧めで日本に職を得る。75年(明治8)来日,地質調査を始める。77年東京大学の開設にあたり,日本で最初の地質学教授となり,多くの後進を育てた。78年政府に進言して,内務省地理局に地質課(現在の地質調査所)を置き,翌年ナウマン自身大学から同課に移った。その後全国の地質調査を立案し,自身も東北・関東・四国地方を調査,85年退職,帰国した。

 同年ベルリンで開かれた万国地質学会議に際して,自分が指導して調査した日本の地質をまとめた《日本群島の構造と生成Über den Bau und die Entstehung der japanischen Inseln》を出版(1885),日本列島は内・外帯に分かれた帯状構造をもつ単一の大弧状山脈で,大陸側からの横圧力によって形成され,さらに中央部に大陥没帯を生じて,東北日本と西南日本に分かれたとした。その大陥没地帯を86年フォッサマグナと命名した。帰国後はミュンヘン大学や鉱業会社に関係して,トルコ,メキシコなどの調査を行い,また日本の地質についての論文をいくつか発表している。持ち帰った日本の化石についても研究・発表した。在日中に日本の旧象化石についてまとめ,ドイツの雑誌で発表している(1881)。その中に記載されている横須賀産のものは,槙山次郎によって別の亜種とされ,ナウマンを記念してナウマンゾウと命名された(1921)ものである。ナウマンは帰国後,自説の日本群島構造論だけでなく日本の文物の紹介にも努めたが,好意的ではなく,当時ドイツに留学していた森鷗外と論争したことはよく知られている。
執筆者:


ナウマン
Friedrich Naumann
生没年:1860-1919

ドイツの政治家。プロテスタントの牧師としてシュテッカーAdolf Stoecker(1835-1909)のキリスト教社会派の運動に参加。M.ウェーバーとの交友の中でこれと決別,1896年国民社会協会を創設。《民主主義と帝制》(1900)で世界政策と民主主義を結合する〈社会的帝制〉を主張。次いで自由主義左派の結集に尽力,第1次世界大戦中は《中欧》(1915)でドイツ覇権下の経済新秩序を唱道。ドイツ革命では新設のドイツ民主党Deutsche Demokratische Parteiの党首となる。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「ナウマン」の解説

ナウマン

没年:1927.2.1(1927.2.1)
生年:1854.9.11
明治期に来日したお雇い外国人。ドイツ人地質学者。マイセン生まれ。ミュンヘン大学で地質学を学び,1874年に学位取得後,バイエルン鉱山局に就職。明治8(1875)年に来日して東京開成学校の教師となり,開成学校が10年東大となって,初代の地質学の教授となった。2年後当時の政府に建言して内務省地理局に地質課を新設させ,そこに配置換えになった。15年に地質調査所となったこの機関(初代所長は和田維四郎)に6年間勤務したナウマンは,18年帰国するまで,日本全土の地質学的調査に専念した。その成果のなかでも最も著名なのは,本州中部を横断する構造体としての褶曲山脈を発見,これにフォッサ・マグナと命名したことであり,こうした知見を土台に日本列島の構造の生成に関して地質学的仮説を提案したことである。 地質調査の副産物として化石の発掘や調査も行い,15年瀬戸の小豆島,横須賀などから出土した旧象化石を発表し,これらはのちに槙山次郎によって「ナウマン象」と名付けられた。学者としては優秀だったが,教師としては問題があり,また帰欧後の日本の紹介活動も皮相的で,1886年にドレスデンの地質学協会での日本についての講演には,出席していた森林太郎(鴎外)が反論を展開するという事件もあった。帰国後はミュンヘン大学やいくつかの会社を転々としたが病気がちのうちに没した。<著作>《Ueber den Bau und die Entste‐ hung der japanischen Inseln》<参考文献>上野益三『お雇い外国人』3巻自然科学篇

(村上陽一郎)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

百科事典マイペディア 「ナウマン」の意味・わかりやすい解説

ナウマン

ドイツの地質学者。マイセン生れ。ミュンヘン大学に学ぶ。1875年来日。東大で日本の地質学育成に貢献。地質調査所の設立を建議。初めて日本の地質系統を整理し地質構造区分を行う。フォッサマグナを命名。その地体構造論はその後の日本列島構造論の基礎となったが,後に原田豊吉らに批判された。1885年帰国。
→関連項目ナウマンゾウブラウンス

ナウマン

スウェーデンの湖沼学者。ルンド大学教授。1920年ころドイツのティーネマンとともに総合湖沼学を体系づけた。1921年には湖沼標式についての論文を発表し,1922年には国際陸水学会を提唱し成立させた。以後,湖沼標式研究の普及に努めた。
→関連項目湖沼学

ナウマン

ドイツの政治家。牧師出身でキリスト教社会運動に携わった後,1896年国民社会協会を設立して社会的帝制を主張。第1次大戦中ドイツの指導による中央ヨーロッパ経済共同体の構想を発表。ドイツ革命後,1918年ドイツ民主党を設立,1919年党首。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ナウマン」の意味・わかりやすい解説

ナウマン
Naumann, Edmund

[生]1854.9.11. ザクセン,マイセン
[没]1927.2.1. フランクフルトアムマイン
ドイツの地質学者。日本の地質学の基礎を築いた。ミュンヘン大学卒業。 1875年に来日。東京大学初代の地質学教授 (1877~79) 。 78年内務省地理局内に地質課 (のちに農商務省地質調査所) を設立し,日本の地質学の発展に大きく貢献。 85年帰国した。特に日本の地質構造をまとめ,中央構造線とこれによる外帯と内帯の区分,フォッサ・マグナとこれによる西南日本と東北日本の区分など,現在も用いられている地質構造区分をした。また,ゾウの化石を発見し,それはのちにナウマンゾウと命名された。

ナウマン
Naumann, Friedrich

[生]1860.3.25. ライプチヒ
[没]1919.8.24. トラーベムンデ
ドイツの政治家,ルター派の神学者。初め牧師だったが,キリスト教的社会運動に投じ,1896年国民主義,社会主義を結ぶ国民社会同盟を結成。しかし 1903年の総選挙に敗れドイツ自由思想家党に加わった。 18年の革命ののち,ドイツ民主党を結成,党主となり,ワイマール憲法の作成にも尽力。彼はドイツを中心とする中央ヨーロッパ統合案の提唱者であり,ドイツの民主主義と民族主義,そして帝国主義の結合を具体化した代表的政治家である。主著『中央ヨーロッパ』 Mitteleuropa (1915) 。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ナウマン」の解説

ナウマン Naumann, Edmund

1854-1927 ドイツの地質学者。
1854年9月11日生まれ。明治8年(1875)に来日し,10年東大で日本最初の地質学教授となる。12年地質調査所にうつり各地で調査にあたり,18年帰国。日本の地質構造を解明し,東西をわける地溝帯をフォッサ-マグナと命名。化石象ナウマンゾウは彼の名による。1927年2月1日死去。72歳。マイセン出身。ミュンヘン大卒。著作に「日本列島の構成と生成」。

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ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者) 「ナウマン」の解説

ナウマン

ドイツの作曲家。イタリアに旅行した際にタルティーニやハッセの目にとまり、ヴェネツィアでオペラの作曲家としてデビューした。オペラの他には、オラトリオやミサ曲、コラール・カンタータ等の教会音楽や器楽作品 ...続き

出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「ナウマン」の解説

ナウマン
Friedrich Naumann

1860~1919

ドイツの政治家。1896年国民社会協会を設立して社会的帝政を主張,1903年自由思想連合(帝国主義的な左翼自由派)に合流した。第一次世界大戦中『中欧論』(1915年)を著し,ドイツ指導下の中央ヨーロッパの統合を唱えた。ドイツ革命後ドイツ民主党党首。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「ナウマン」の解説

ナウマン
Edmund Naumann

1854.9.11~1927.2.1

ドイツの地質学者。ザクセン生れ。ミュンヘン大学卒。1875年(明治8)御雇外国人として来日し,東京大学で地質学を教授。彼の提案で地質調査所が設置された。日本列島をフォッサマグナが東北日本と西南日本とに分断したと考えた。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「ナウマン」の解説

ナウマン
Edmund Naumann

1854〜1927
ドイツの地質学者
ミュンヘン大学出身。1875年明治政府の招きで来日。東大で地質学を講じ,各地の地質調査を行い日本列島の構造・成立を解明。また全国地質地図を作成,フォッサ‐マグナを指摘した。

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367日誕生日大事典 「ナウマン」の解説

ナウマン

生年月日:1886年5月13日
ドイツの文学史家,民俗学者
1951年没

ナウマン

生年月日:1854年9月11日
ドイツの地質学者
1927年没

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