〈国民的最低限〉を意味するこの概念は,イギリスのウェッブ夫妻(S.J.ウェッブとB.ウェッブ)が1897年に発表した《産業民主主義》の中で初めて提起したものである。労働組合運動と共済組合活動にゆだねられていた労働者の生活保障問題について,彼らは一定の条件以下ではいかなる産業も経営されることが許されないようなルールを策定することの必要を主張し,衛生と安全,余暇と賃金に関する法律によってナショナル・ミニマムを確保することを企図していた。福祉国家イギリスを形成する重要な契機となった1942年のベバリッジ報告の基本理念もまたナショナル・ミニマム論に拠っていたが,ベバリッジの構想する社会保障制度におけるこの概念は,S.ラウントリーによって作成された最低生計費の水準に基づく所得保障を意味するものであった。すなわち,イギリスの社会福祉政策の基礎にあるナショナル・ミニマム概念は,ウェッブ夫妻においては,賃金,労働時間,住宅,公衆衛生,教育,環境などにわたるきわめて包括的なものであったのに対して,ベバリッジ報告においては,最低限の生存費を意味するものへとニュアンスを変えてきており,今日では一般に後者の観点から国民の最低限度の生活保障を論じる場合に用いられる概念となっている。
ナショナル・ミニマム論は,その経緯にみるように,国民に対する生活保障の基準を明らかにするという意図においてはきわめて積極的な意義をもっている。しかし他方では,それが具体的な政策として展開する過程では,所与の財政的条件とそこにおける政策技術に規定されて,一般にはきわめて低い水準の生計費によって示される,という性格をまぬかれない。社会保障制度確立のうえで画期的な役割を果たしたベバリッジ計画においても,均一拠出・均一給付を原則とする所得再分配の方式は,結果的には低水準の給付をもたらしたのである。
日本におけるナショナル・ミニマムをめぐる論議は,国民に対する最低生活の保障という規範概念と,必要最低生活費の決定という政策概念との,両面から展開されているということができる。日本のナショナル・ミニマムは,憲法25条の〈健康で文化的な最低限度の生活を営む権利〉として端的に表現されているが,現実にはその水準をどのように特定するかが問題となる。現行の生活保護基準の低さが,憲法に定める生存権を侵害しているとして,朝日茂が国を相手どって提起したいわゆる朝日訴訟は,ナショナル・ミニマムの具体的な内容を問うものとして注目された。第一審判決において原告は勝訴したが,第二,三審では第一審判決がくつがえされ,憲法25条は抽象的な権利を示すプログラム規定であり,かつ保護基準そのものにも税金によるものであることに対する国民感情などの生活外的要素を考慮すべきである,などの判断にみられるように,日本ではナショナル・ミニマム論の本来的な意義は否定されたに等しい結論となった。
実質的な最低賃金制が確立されていない日本でのナショナル・ミニマムをめぐる現実は,国民一般の要求水準と大きな隔たりがあるといわざるをえないが,こうした状況に対して,1960年代前半に日本で独自に提唱されたシビル・ミニマムの概念は,地域民主主義に依拠しながら,生活上の諸困難が激化している都市部において,問題意識を〈生存権〉から〈生活権〉へと拡大しつつ,中央政府レベルにおけるナショナル・ミニマム論への先導性を発揮しようとするものといえる。しかし,多くの場合,シビル・ミニマムが法制改革・財政改革へのインパクトを与えるに至らずに,逆に国の設定する最低基準の低さと,都市生活に必要な行政水準とのギャップを,自治体の超過負担で埋めなければならないのが現実であり,社会保障の権利性という観点からみたナショナル・ミニマム論はあいまいなまま残されているといえる。
執筆者:庄司 洋子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
(金谷俊秀 ライター/2015年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報
国家が社会保障その他の施策を通して、すべての国民に対して保障する「最低生活基準」をいう。イギリスのウェッブ夫妻によって提唱され、『ビバリッジ報告』(1942)において社会保障の具体的な政策目標として設定された。日本でも、行政の重点や住民の関心が生活や福祉をめぐって展開されるようになってくると、それらの現状や水準、さらには目標や計画の到達の度合いなどを、客観的、科学的に把握したり、位置づけをしたり、比較をするという試みや動きがいくつかの方面から出されるようになり、それらとの関連で、ナショナル・ミニマム、シビル・ミニマム、コミュニティ・ミニマムなどへの関心や作成の動きがみられるようになってきている。
[園田恭一]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…また低所得者に対して,公営住宅の建設,保育所の整備,老人医療費および幼児医療費の軽減化と無料化,直接的な所得補償などの社会福祉的施策が推進された。 シビル・ミニマムに類似した言葉にナショナル・ミニマムがある。ほとんど同義語に使われることが多いが,ナショナル・ミニマムには,高度経済成長によって拡大した先進地域と後進地域の間の生活環境や生活水準の格差是正という問題意識が強く含まれている。…
…しかし,これが具体化したのは第2次大戦後であり,1942年のベバリッジ報告がその展開に指導的な役割を果たした。
[第2次大戦後の現代社会保障]
ベバリッジの社会保障計画は,(1)労働者だけではなく自営業者や無業者などの全国民を対象とする普遍的な制度であり,(2)全国民に最低生活水準すなわちナショナル・ミニマムを保障することとし,(3)全国民に均一の保険料を拠出させ,失業,傷病,老齢などの生活不安の危険が発生した対象者に均一平等の給付を行う,ということを基本原則としていた。このような平等原則,最低保障原則は,はじめ各国の社会保障政策に大きくとり入れられた。…
※「ナショナルミニマム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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