パキスタンのパンジャーブ州ムルターン北東約140kmにあるインダス文明都市期を代表する都市遺跡。ラービー涸川南岸に位置する。19世紀にカニンガムA.Cunninghamが剝片石器,印章などを採集したが,1920年代にサハニD.R.Sahniがインド亜大陸における未知の古代文明に属する遺跡であることを示唆し,のちバッツM.S.Vatsが大規模に発掘して,内容を明らかにした。最初にインダス文明が知られた遺跡としてその都市期の文化をハラッパー文化と呼ぶ。東の城塞と西の市街とから成る点,モヘンジョ・ダロやカーリーバンガンと同じだが,19世紀に鉄道のバラスト代りにここの焼煉瓦が多く乱掘され,市街地の状況は明らかでなく,市街地の遺跡は今のハラッパー村の南に残るのみである。城塞は東西幅200m,南北400m。ほぼ平行四辺形を呈する。1946年にR.E.M.ウィーラーがその構築や城壁の様相を明らかにした。自然層とその上に重なる文化層を切りこんで,城壁(基底部幅約19m,残高14m)を日乾煉瓦で積み,内側を泥や日乾煉瓦で充塡して城塞基床(高さ7m)をつくる。また城壁外面は焼煉瓦で被覆する。基床の上にあった建物は明らかではないが,6時期の床が一部で検出された。城壁は北・西に入口をつけ,突角堡を不規則に配置している。バッツの発掘では,ラービー川と城塞との間の低所に,北から穀物倉(東西に相対する細長い建物で,床下に通風施設をもつ),工房,職人住宅などが並んでいた。ハラッパーはモヘンジョ・ダロとともにインダス文明圏を支配した南北の2都だという考え方があるが,城塞の上で出土したある種の土器は,モヘンジョ・ダロ後期にのみ出現する土器であること,またこの2都の穀物倉の平面形が全く異なったものであることなどから,両者には時期差がみられる。なお,城塞以前の文化層からはインダス文明都市期の文化とは異なった遺物が出土した。
→コト・ディジ
執筆者:桑山 正進
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インダス文明の代表的な都市遺跡の一つ。パキスタン中東部、パンジャーブ地方サヒワルの西方20キロメートル、ラービ川左岸に位置する。1922年のインド考古局のD・R・サハニによる発掘以来、バッツ、イギリスのウィーラーらが発掘を行ったが、遺跡の全容は、後世の破壊によってモヘンジョ・ダーロほどに明確ではなく、西側の城塞(じょうさい)部とその周辺が明らかにされているのみである。
城塞部は南北に長いほぼ平行四辺形をなし、東西約200メートル、南北約400メートルの規模である。全体が焼成(しょうせい)れんがで表面を覆った日干しれんが製の厚い城壁によって囲まれており、北西と南東隅にそれぞれ見張り塔を置くほか、おそらくは北と西に城門を開け、所々には稜堡(りょうほ)が築かれていた。なかでもウィーラーの発掘した西門とそれに隣接する厚さ12メートルもの城壁基壇がもっともよくその様相を明らかにしており、この下層からは、文明形成以前の文化層のあることも明らかになった。
城塞外の北西方、かつてのラービ川の涸(か)れ川河床との間に挟まれた地域にも、いくつかの重要な遺構がある。すなわち基壇の腰壁はモヘンジョ・ダーロのものほど高くはないが、床面積(800平方メートル余)においてそれとほぼ同様の、大規模で整然とした穀物倉が川に近い所にあり、その南方には円形に焼成れんがを敷き詰め、中央に木製の臼(うす)を据えたと思われる作業台を18個並べた作業場、またおそらくは労働者用の住居と思われる、規格化された小住宅を二列に配した建物などがある。
一方、城塞外南方には二つの墓地が発見され、そのうちHと名づけられた墓地からは、文明最盛期よりのちの文化様相を示すH墓地文化の跡が明らかとなった。同文化の分布はインド国境に近いバハーワルプル地方にも跡づけられ、文明末期およびその後に関する諸問題を提示しているが、その詳細はまだ不明である。
[小西正捷]
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インダス文明の都市遺跡。パキスタンのパンジャーブ州,インダス川の支流ラヴィー河岸にある前2300~前1800年頃の都市。発掘は1920年からで,最初にインダス文明の存在が明らかにされた遺跡であり,そのため都市期の文化をハラッパー文化と呼ぶ。小高い城塞部と市街地が分離して配された計画都市で,外面に焼煉瓦を使用し,また市街区が碁盤目状の大小の道路に区画されている。城塞のすぐ外側には工房,職人住宅,さらにその奥に穀物倉庫が建てられている。
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…その流れを汲むイタリアのオペラ・セーリアopera seria(正歌劇)やフランスのトラジェディ・リリックtragédie lyrique(抒情悲劇)は,古典的な格調の高さにおいて高度の様式美を維持しながら,社会の上層部,支配階級と結びついて発展した。18世紀以降は,これに対して,イタリアではオペラ・ブッファopera buffa(道化オペラの意),フランスではオペラ・コミックopéra comique(喜歌劇,のちにはせりふを含むオペラを意味する),イギリスではバラッド・オペラballad opera(俗謡オペラ),ドイツではジングシュピールSingspiel(歌芝居)など,より庶民的な性格の強いオペラのタイプが興ったが,それらに共通するのは,正歌劇や抒情悲劇の貴族性と形式ばった様式に対する反動とパロディの精神であった。つづく19世紀には,作品の規模,壮大な舞台効果,シリアスな情緒において,かつてない高みに登ろうとした〈グランド・オペラgrand opéra〉に対して,再び庶民的な気軽さと息抜きを求めるオペレッタが興った。…
…喜劇も王政復古期の風習喜劇から教訓的な感傷喜劇に変わっていたが,この変化の根底には劇に実用性を求める中産階級の好みがあった。18世紀独自のジャンルには,ジョン・ゲイの《乞食オペラ》(1728)に始まるバラッド・オペラがあるが,これもイタリア風のオペラに対する庶民の批判のあらわれである。37年,劇を通じてなされる風刺に閉口した政府は,事前許可制法を定めて脚本の検閲を行うことにした(これは1843年の劇場統制法に引き継がれ,1968年になってやっと廃止された)。…
…その流れを汲むイタリアのオペラ・セーリアopera seria(正歌劇)やフランスのトラジェディ・リリックtragédie lyrique(抒情悲劇)は,古典的な格調の高さにおいて高度の様式美を維持しながら,社会の上層部,支配階級と結びついて発展した。18世紀以降は,これに対して,イタリアではオペラ・ブッファopera buffa(道化オペラの意),フランスではオペラ・コミックopéra comique(喜歌劇,のちにはせりふを含むオペラを意味する),イギリスではバラッド・オペラballad opera(俗謡オペラ),ドイツではジングシュピールSingspiel(歌芝居)など,より庶民的な性格の強いオペラのタイプが興ったが,それらに共通するのは,正歌劇や抒情悲劇の貴族性と形式ばった様式に対する反動とパロディの精神であった。つづく19世紀には,作品の規模,壮大な舞台効果,シリアスな情緒において,かつてない高みに登ろうとした〈グランド・オペラgrand opéra〉に対して,再び庶民的な気軽さと息抜きを求めるオペレッタが興った。…
…しかし彼の代表作は戯曲《乞食オペラ》(1728初演)である。これは原則として既存のバラッドの曲に新たに詞をつけたものを,散文の台詞の間に散りばめた音楽劇で,イギリス最初の〈バラッド・オペラ〉である。ロンドンの盗賊や娼婦の世界をかりて行った政治風刺の辛辣さと親しみやすいメロディのせいで大いに人気を得,イタリア・オペラに対して土着的題材を扱う英語の音楽劇を確立させた。…
…好色な追剝の首領マクヒースを主人公とし,乞食,泥棒,娼婦,監獄の役人,盗品故買業者などが登場するが,作者は彼らの生態の描写を通じて当時の世相,特に首相R.ウォルポールが君臨する政界を風刺している。既存のバラッドの曲に新たにつけた詞と台詞をまじえた音楽劇で,イギリス最初の〈バラッド・オペラ〉とされる。これは当時もてはやされていたイタリア・オペラに対して,庶民的な音楽と題材を選び,母国語を用いることによって,新たなジャンルを確立しようとしたものである。…
※「ハラッパー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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