パレスティナ問題(読み)パレスティナもんだい

百科事典マイペディアの解説

パレスティナ問題【パレスティナもんだい】

パレスティナをめぐるアラブ勢力とイスラエルの間の紛争。19世紀初めからシオニズム運動の高まりの結果,ユダヤ人のパレスティナ流入が盛んになった。第1次大戦中,英国が,フサイン=マクマホン書簡でアラブ人に,バルフォア宣言でユダヤ人に,それぞれパレスティナにおける建国を約束するという矛盾した政策をとったため,戦後両民族の対立が激化した。第2次大戦後パレスティナは分割され,ユダヤ人はイスラエル共和国を建国。これを機に1948年,1956年,1967年,1973年の4次の中東戦争と武力抗争が続いた。これらの戦争の過程で多くのパレスティナ・アラブ難民が周辺諸国に流入した。第3次中東戦争の結果,ナーセルの指導力は後退し,アラブ諸国にかわってパレスティナ人自身による組織PLO(パレスティナ解放機構)が解放運動の主体となった。また第4次中東戦争以後,パレスティナ人の国家樹立を含む民族的権利の行使を認めない限り,中東に永続的な平和がもたらされないという認識が世界中に深まり,PLOの国際的地位が高まった。こうしたなか,エジプトとイスラエルとの和平(キャンプ・デービッド合意),レバノン戦争によるベイルート撤退で打撃を受けたPLOは,武装闘争から現実的な外交戦略に路線を変更。1967年以来イスラエル占領下におかれたガザ地区とヨルダン川西岸地区が問題の焦点となった。1988年にはPLO・イスラエル間に歴史的な相互承認が成った。さらに湾岸戦争でアラブ諸国の分裂は決定的となり,アメリカ主導の中東和平プロセスのもと,1993年PLOとイスラエルはパレスティナ暫定自治宣言に調印,ガザ,イェリコの両地区にパレスティナ暫定自治政府が樹立されることになった(オスロ合意)。しかし,イスラエルで2001年リクード党のシャロン政権が登場して以後,オスロ合意による和平交渉は行き詰まった。米国における9.11事件以後シャロン政権は一層強硬策に転じ,2002年にはパレスティナ自治区に軍事侵攻し,これに対する自爆テロも激発した。アメリカのブッシュ政権は2003年のイラク戦争後,パレスティナ国家の独立とイスラエルとの共存をめざす〈ロードマップ(行程表)〉を提示したが,まもなく暴力の連鎖が再燃し,情勢はむしろ悪化した。2004年PLOのアラファート議長の死後,穏健派のM.アッバスが後任となり,和平交渉の気運が高まった。2005年8月,ガザ地区と西岸地区の北部の一部からのイスラエル人入植者の退去が完了した。しかし2006年ハマースが総選挙で勝利し,2007年にハマースと穏健派のファタハの連立政権がいったん成立したが,内部抗争が続き,さらに内戦状態となり,連立政権は崩壊した。イスラエルと米国はハマースを交渉相手と認めず,2008年12月イスラエルはガザ地区のハマースを空爆,さらに2009年1月には地上侵攻した。2009年2月のイスラエル総選挙で,ネタニヤフ率いるリクードが第1党は逃したものの躍進し,労働党などとの右派連立を実現,ネタニヤフが10年ぶりに首相に返り咲いた。ネタニヤフは,入植事業の継続政策を加速,入植凍結を和平交渉再開の条件とするパレスティナ政府との溝はさらに拡がった。パレスティナは2011年9月,はじめて国連に加盟申請を行い,2012年11月,国連総会は,パレスティナ自治政府の参加資格を,オブザーバー組織からオブザーバー国家に格上げする決議案を賛成多数で承認した。パレスティナを国家として承認する国も増えている。しかし,2013年1月のイスラエル総選挙でリクードは,同じく右派・極右のイスラエル・ペイティヌとともにリクード・ペイティヌとして統一名簿で臨み,大幅に議席は減らしたものの第1党を確保,3月右派・中道連立内閣を発足させ,ネタニヤフが3度目の首相となった。2014年7月イスラエルはガザ地区のハマース拠点に猛攻撃を加え,8月末停戦合意が成立したが,パレスティナ住民2000人が犠牲となった。2015年3月の総選挙ではリクードはシオニスト・ユニオンに追い上げられたものの第1党を確保,ネタニヤフが連立政権を引き続き率いるとされている。
→関連項目アッバスイスラエルインティファーダエルサレムサイクス=ピコ協定聖地問題第1次世界大戦中東パレスティナ自治政府バンチユダヤ人ヨルダン

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世界大百科事典 第2版の解説

パレスティナもんだい【パレスティナ問題】

アラブ分割政策(アラブのユダヤ教徒を〈ユダヤ人〉として扱い,これを非ユダヤ教徒としての〈アラブ〉から切り離す)と独特の植民地主義(世界のユダヤ人World Jewryすなわち離散の地diasporaのユダヤ人のパレスティナ植民を国際的に組織する)とを結合させるシオニズム運動(1948年以降はイスラエル国家)と,これを19世紀の東方問題に代わる20世紀の中東支配・管理のための基軸的装置として利用しようとした強国(1917年のバルフォア宣言から第2次世界大戦まではイギリス,フランス,ことにイギリス,第2次世界大戦から1967年まではアメリカ,ソ連,67年以後は主としてアメリカ)の政策とが,からみあってつくり出してきた国際的・社会的紛争。

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世界大百科事典内のパレスティナ問題の言及

【中東戦争】より

…一方,イギリスはナチズムの中東への浸透を恐れ,こうしてパレスティナの事態はアラブ,イギリス各政府の共通の関心事となり,30年代を通じてアラブ諸国がパレスティナの問題に介入してゆく。第2次大戦後,経済的に疲弊したイギリスにはもはや事態を抑える力がなく,47年2月パレスティナ問題を国連にゆだねることに決定した。4月,国連特別総会が招集され,国連パレスティナ特別委員会United Nations Special Committee on Palestine(UNSCOP)の報告に基づき,11月29日国連総会はパレスティナの分割を決議し(パレスティナ分割決議),イギリス政府は48年5月15日をもって委任統治を終結することを決定した。…

【中東和平問題】より

…77年11月エジプトのサーダート大統領がイスラエルを訪問したのを機に,エジプト,イスラエル間に和平の気運が高まり,78年9月のキャンプ・デービッド合意をへて,79年3月,エジプトとイスラエルは平和条約に調印した。第4次戦争のあと,国際世論はパレスティナ問題の解決なくして中東和平はありえないとの点で一致したが,この最初の平和条約はパレスティナ人の存在を素通りしたものであった。 その後,中東はイラン・イスラム革命に揺れ,イラン・イラク戦争に注意を奪われる一方で,82年6月イスラエル軍がレバノンに侵攻し,パレスティナ・ゲリラの基地を一掃する作戦を展開した。…

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