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ビザンティン美術 ビザンティンびじゅつ

世界大百科事典 第2版の解説

ビザンティンびじゅつ【ビザンティン美術】

東ローマ帝国の美術で,厳密にいえば,年代的には330年のコンスタンティノープル開都から15世紀半ば(1453)にイスラム教徒に攻略されるまでが,その時期であり,地域的には,帝国領域内(時代によって境界線は著しく変動)に限定される。しかしこの厳密な意味でのビザンティン美術の時間的・空間的周辺には,同じキリスト教美術に属するものとしてもコプト美術,シリア美術,アルメニア美術,ゲオルギア美術,イタリア美術(13世紀まで),ロシア美術などがあり,とくにバルカン地域ではビザンティン美術の跡がつよく残っている。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ビザンティン美術
びざんてぃんびじゅつ
Byzantine Art

ビザンティン帝国の美術で、首都コンスタンティノポリス(今日のイスタンブール)を中心に、5~6世紀から帝国滅亡の15世紀中ごろまで、東方キリスト教世界に展開した中世美術。
 ビザンティン文化圏は、ヨーロッパからアジア、北アフリカの広大な地域にまたがり、その美術も当然ながら、時代と地域によって複雑な様相を示している。ビザンティン美術の発足期をどこに置くかはむずかしいが、少なくともユスティニアヌス帝(在位527~565)時代に最初の黄金時代を迎えたことは確かである。古代末期の初期キリスト教美術にはすでに東西地中海世界の異なった歩みが認められたが、東方キリスト教美術がその独特の様式をはっきりと自覚するのは6世紀に入ってからである。その後イコノクラスム(聖画像破壊運動)終結の843年までを第一期、マケドニア朝とコムネノス朝期の9~12世紀を第二期、パレオロゴス朝期の13~15世紀を後期にあたる第三期とみなすことが一般的である。
 古代ローマ帝国の正統な後継者を自負したビザンティン帝国の美術は、古代ギリシア・ローマ美術の流れをくむ自然主義様式と、シリア、パレスチナを中心とした古代東方美術の厳格な精神性に根ざした抽象的様式との融合から生まれたといえる。教会建築、モザイクやフレスコ技法による壁画、エンカウスティック技法の聖画イコン、彩色写本挿絵、象牙(ぞうげ)や金銀細工、エマイユ(七宝)などの工芸品の分野に華麗な一大中世美術を築いたこのキリスト教美術の本質は、深い神学理論をもとにした超絶的な神の栄光賛美にある。そして、西欧中世のロマネスクやゴシック美術との根本的な相違は、本来キリスト教美術の本質的命題である不可視の神の表現の是非をめぐる聖像論争(イコノクラスム)という厳しい試練ののち、ビザンティン美術が獲得した深い瞑想(めいそう)的境地にある。[名取四郎]

第一期

ユスティニアヌス帝時代からイコノクラスム終結までのこの時代の代表的モニュメントとしては、まず首都コンスタンティノポリスのハギア・ソフィア大聖堂があげられる。昔日のローマ帝国再現に野心を傾けた同皇帝が、総力をあげて都に建造させ、537年に献堂式が華々しく執り行われた。バシリカ型教会に円蓋(えんがい)(ドーム)を架すというキリスト教建築の夢を実現したのがこの大聖堂であるが、モザイク壁画は、一部の装飾文様部分を除いて、今日残るのは9世紀以降のものである。6世紀のビザンティン様式のモザイク壁画は、北イタリアのラベンナの諸教会にみごとに保存されている(サン・ビターレ教会など)。また、ギリシアのテッサロニキの諸教会、シナイ山のハギア・カテリーナ(カトリーナ、エカテリニ)修道院教会のモザイク、エジプトのサッカラやバウイトの修道院群のフレスコ壁画など、イコノクラスムの破壊を免れたわずかな壁画作例が帝国領土内の各地に分散して現存している。ローマのサンタ・マリア・アンティカ教会の7~8世紀のフレスコ壁画も、この時期のビザンティン様式絵画の貴重な作品である。
 ビザンティン絵画の第二の重要なジャンルのイコンも、シナイ山の作品のように、6世紀のものがある。教会の内陣障壁(イコノスタシス)を飾るイコンは、ビザンティン美術の聖者崇拝にまつわる独特の形式としてその後華々しい展開を示す。また当時のコンスタンティノポリスの美術を知るうえで、『ラブラ福音書(ふくいんしょ)』『シノペ福音書』『ウィーン創世記』などの写本挿絵も重要である。彫刻は神学上の理由から丸彫りは影を潜め、わずかに象牙浮彫りなどの領域に活躍の場があったにすぎない。[名取四郎]

第二期

聖画像表現を偶像崇拝として厳しく禁止し、1世紀余の間ビザンティン帝国を揺るがしたイコノクラスムが終結したのち、前代の美術を再吸収しつつ、真にビザンティン様式とよぶにふさわしい美術が確立された。マケドニア朝(868~1057)からコムネノス朝(1057~1185)にかけての時代である。建築では、ギリシア十字形プランに円蓋を架した教会堂が9~10世紀に成立。それにしたがって堂内の壁画装飾プログラムが整備され、天空により近い高さに応じて、円蓋の頂に座を占めるパントクラトールのキリスト、アプスの聖母子をはじめとして、他の壁面には教会暦による十二祭礼図などの聖書場面、聖者像を配する図像配置が決定された。こうしてビザンティン教会美術は、まさに神の栄光賛美に捧(ささ)げられたものとなる。この時代の典型的な教会および壁画は、ギリシアのダフニ修道院教会やホシオス・ルーカス修道院教会、キオス島のネア・モニ修道院教会などにみられる。またこの時代はスラブ諸国のキリスト教化に伴ってビザンティン美術様式が帝国周辺に広まった時期で、マケドニア、セルビア、ブルガリア、ロシアの諸地域、さらにはイタリアのベネチア、シチリア島に今日もみごとな壁画をもつ教会堂群が残っている。イコンもイコノクラスム以降とくに隆盛を極める。熱狂的なイコン崇拝は、聖画像がもつと信じられた魔術的、神秘的効力への盲目的な信仰にまで高められる。様式上の見地からみれば、この時代の壁画やイコン、写本挿絵にも、古代ヘレニズム美術の伝統である自然主義的様式と、抽象的な東方様式ないしは民族的地方様式との融合というビザンティン絵画の一貫した課題が認められる。[名取四郎]

第三期

1204年以降57年間続いた第四次十字軍によるコンスタンティノポリスの占拠が終わると、ビザンティン美術はパレオロゴス朝期(1261~1453)に最後の花を咲かせる。精緻(せいち)な技法によるしなやかで優雅な精神性を漂わせたこの時代の壁画は、まさに中世の一大キリスト教美術の終焉(しゅうえん)を告げる夕映えにふさわしい美しさをもつ。すでにトルコ人の絶えざる脅威にさらされて帝国は弱体化し、文化の中心もしだいに地方に分散してゆく状況にあった。しかし、コンスタンティノポリスの美術が最後まで指導的役割を果たしていたことは、ハギア・ソフィア大聖堂やコーラ修道院教会のモザイクおよびフレスコ壁画が示している。第一期、第二期の荘重で偉大な様式は影を潜め、控え目で洗練された繊細な感情表現が現れる。さらにはギリシアのミストラス、小アジアのトラブゾン(トレビゾンド)、セルビアやブルガリア諸地域にも、なかば地方様式化したこの時期の多数の壁画作例が残されている。ビザンティン美術は帝国滅亡とともにとだえたわけではない。アトス山をはじめとする各地の修道院が、ギリシア正教とともに、その美術をも現代に至るまで守り続けている。[名取四郎]
『柳宗玄編著『大系世界の美術9 東方キリスト教美術』(1975・学習研究社)』

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世界大百科事典内のビザンティン美術の言及

【初期キリスト教美術】より

…キリスト教的主題と目的に従った作品を中心とするが,美術史的見地からは,関連ある同時代の異教的・世俗的作品も含める。時代の前半は西洋古代美術の最終段階である古代末期と,後半は初期ビザンティン美術と重なっている。美術史的特徴に従って三つの編年的段階に分けることができる。…

※「ビザンティン美術」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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