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フサイン・イブン・アリー al-Ḥusayn ibn `Alī

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

フサイン・イブン・アリー
al-Ḥusayn ibn `Alī

[生]626.1. メジナ
[没]680.10.10. イラク,カルバラー
イスラム教シーア派第3代イマーム。第4代正統カリフ,アリーの息子。母はムハンマドの娘ファーティマ。シーア派イスラム教徒の推戴するアリーの死後,フサインは兄のハサンがカリフ位の継承権を放棄したことを非難し,ウマイヤ朝の第2代カリフ,ヤジードのカリフ位の承認を拒否して,メジナからメッカに逃れた。 680年クーファの民に促されて反ウマイヤ家運動に立ち上がったが,チグリス河畔のカルバラーで敗死した。フサイン殉教の日 (ムハッラム月 10日) には現在でもシーア派イスラム教徒が彼の死を悼んで服喪行事を行なう。

フサイン・イブン・アリー
Ḥusayn ibn `Alī

[生]1854頃. オスマン帝国,コンスタンチノープル
[没]1931. トランスヨルダン,アンマン
メッカアミール(在位 1908~16),ヒジャーズ王(在位 1916~24)。19世紀初頭までメッカを支配してきたハーシム家の家系に生まれた。1908年にアミールとなり,第1次世界大戦中は,オスマン帝国の支配に対するアラブの反乱で指導的役割を果たした。1916年10月,「アラブ諸国の王」を宣言したが,連合国側はヒジャーズ王国(→ヒジャーズ地方)の王としてのみ公式に認めた。1919年のパリ講和会議には三男のファイサルを代理として派遣したが,フランスとイギリスがシリア,パレスチナ,イラクを委任統治領化したことに抗議し,ベルサイユ条約には調印しなかった。その後,国内政治では強欲さと保守主義的傾向を強める一方,ワッハーブ派(→ワッハーブ派運動)のイブン・サウードと意図的に対立し,のちの災いを招いた。1924年にカリフ即位を宣言するが,まもなくイブン・サウードがヒジャーズ王国に攻め入り,同年 9月にターイフを攻撃されると,なすすべもなく敗れた。1924年10月に退位し,イギリスによってキプロス島に身柄を移された。4人の息子をもうけ,長男アリーは 1924年に 2代目ヒジャーズ国王に即位したが,翌年退位。二男アブドゥラーはトランスヨルダン(→ヨルダン)の国王となり,三男はファイサル1世としてイラクの国王の座についた。

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