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フリードリヒ・ウィルヘルム Friedrich Wilhelm

世界大百科事典 第2版の解説

フリードリヒ・ウィルヘルム【Friedrich Wilhelm】

1620‐88
ホーエンツォレルン家のブランデンブルク選帝侯。在位1640‐88年。その治績により〈大選帝侯〉と呼ばれる。巧みな外交で属領プロイセン公国をポーランドの宗主権から解放したほか,とくに国内政治の面で,特権的な貴族や自治都市の勢力を押さえ,常備軍と租税制度を導入し,集権的な官僚行政機構の基礎を据えた。この点で,プロイセン絶対主義の先駆者とみなされる。【成瀬 治】

出典 株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について 情報

世界大百科事典内のフリードリヒ・ウィルヘルムの言及

【ブランデンブルク】より

…三十年戦争の際,ブランデンブルクは,スウェーデンの介入に対して最初のうち反抗的な態度をとったため,スウェーデン軍・皇帝軍の双方によって国土を荒らされ,ユンカーの勢力もかなり弱まった。
[ブランデンブルク・プロイセンの発展]
 1640年に〈大選帝侯〉フリードリヒ・ウィルヘルム(在位1640‐88)が即位すると,彼はフランス,スウェーデン,ポーランドなどの間で巧みな外交政策を展開し,ウェストファリア条約で東部ポンメルンを獲得したほか,60年にはこれまでポーランドの宗主権に服していたプロイセン公国に対する完全な主権をかちとって,北ドイツの強国としてのプロイセンの基礎をすえた。また,国内政治の面でも,ユンカーをはじめとする諸領域の特権身分の抵抗を排して,常備軍と租税制度を確立し,中央集権的な官僚行政機構の建設にとりかかった。…

【プロイセン】より

… これ以後,プロイセン公国は,ホーエンツォレルン家のもとに,同君連合のかたちで,歴代のブランデンブルク選帝侯の支配をうけるが,プロイセンに対するポーランドの宗主権はなおも存続した。ようやく〈大選帝侯〉フリードリヒ・ウィルヘルム(在位1640‐88)のとき,スウェーデン・ポーランド間の戦争(1655‐60)に乗じて,ブランデンブルクはポーランドからプロイセン公国における完全な主権を獲得し(1657),1660年のオリバOliva和約でこの主権はスウェーデン・ポーランド両国により承認された。 プロイセン公国でも,ブランデンブルクにおけると同様,16世紀以来ユンカー(地方貴族)の農奴制的な直営地経営(グーツヘルシャフト)が発展していた。…

【ホーエンツォレルン家】より

…そして1615年,プロイセン公家の断絶とともに,ブランデンブルクのホーエンツォレルン家がプロイセン公をも兼ねることとなる。40年にフリードリヒ・ウィルヘルムが登位するまで,ブランデンブルクは有能な君主に恵まれなかったが,かねてより展開されていた婚姻政策の結果,1614年にはライン下流域に,小さいながら商工業の進んだクレーベ公国とマルク伯領を獲得した。 フリードリヒ・ウィルヘルムが,ブランデンブルク・プロイセンの貴族(ユンカー)の政治権力を打ち破り,絶対主義への道を切り開いてのち,次の選帝侯フリードリヒ3世は,スペイン継承戦争で皇帝を支援する代償として,プロイセン王の称号を授けられ,フリードリヒ1世と称した。…

※「フリードリヒ・ウィルヘルム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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