ブラウエ・ライター(読み)ブラウエライター

百科事典マイペディア 「ブラウエ・ライター」の意味・わかりやすい解説

ブラウエ・ライター

〈青騎士〉と訳されるドイツ語。ブリュッケに続くドイツ近代絵画史上の重要な運動で,表現主義一翼をになった。1911年カンディンスキーマルクによってミュンヘンで結成され,のちクレーも参加。1912年からは雑誌《ブラウエ・ライター》を刊行。またシェーンベルクウェーベルンベルクらの音楽家も協力した。原始美術や民衆美術への強い関心とともに,色彩によるリリックな抽象芸術への傾斜を示し,ドローネーオルフィスム共鳴。展覧会にはブリュッケの画家をはじめ,H.ルソーピカソブラックブラマンクマレービチら当時の前衛芸術家を幅広く招待した。
→関連項目アルプミュンヘン

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改訂新版 世界大百科事典 「ブラウエ・ライター」の意味・わかりやすい解説

ブラウエ・ライター
Der Blaue Reiter

カンディンスキーとマルクFranz Marc(1880-1916)により編集され,1912年にミュンヘンで創刊された年刊誌。〈ブラウエ・ライター〉とはまた,同誌に参加した芸術家グループの名称で,彼らの運動は,先立つ〈ブリュッケ〉グループとともに,表現主義の一翼をになった。〈青騎士〉と訳される。同誌は〈大いなる精神の時代〉を予見する両編集者の論文をはじめ,抽象芸術に関する論考をロシア,ドイツ,フランスなど国際的規模で収め,抽象を志向する今世紀前衛芸術の先駆的な一里程標となった。彼らの抽象志向は諸芸術総合の理念と密接な関係にあり,それは当時画家でもあった作曲家シェーンベルクの寄稿,カンディンスキーの音と色と運動を総合する舞台構成論と,さらにそれを具体化した《黄色い響き》などに端的に表れている。また多数収録された古今図版,とくに民衆的,民俗的,原始的な図像や児童画は,抽象志向と芸術の根源探求との強い結びつきを示している。彼らのグループとしての活動は,11年12月に〈ミュンヘン新芸術家協会〉第3回展で出品作を拒否されたカンディンスキーがマルク,クビーン,ミュンターGabriele Münter(1877-1962)らとともに脱会し,同じ画廊で同時にブラウエ・ライター編集部主催展を開いたことに始まる。翌年の第2回展には,ピカソ,ブラック,ドラン,マレービチ,ラリオーノフらをも招待した。しかし普通ブラウエ・ライターと呼ばれているのは,ベルリンの〈嵐(デア・シュトゥルムDer Sturm)〉画廊展など,その後のブラウエ・ライター展参加者をも併せ考え,カンディンスキーを中心にしたマルク,マッケAugust Macke(1887-1914),クレーの4人,およびヤウレンスキーらをいう。彼らはそれぞれロシア正教の神秘主義,ドイツ・ロマン主義,ドローネーのオルフィスムOrphismeなどにつながりながら,造形の根源を追求し,目に見えぬ世界の視覚化を志した。この抽象的造形の志向は,第1次大戦後のバウハウスでカンディンスキーとクレーによりシステム化され,新たな発展をとげた。
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