ブラマンテ(その他表記)Donato Bramante

デジタル大辞泉 「ブラマンテ」の意味・読み・例文・類語

ブラマンテ(Donato Bramante)

[1444~1514]イタリア建築家・画家。ルネサンス建築様式の完成者といわれ、サンタマリアデッレグラツィエ教会改築や、サンピエトロ大聖堂の改築計画などにたずさわった。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「ブラマンテ」の意味・読み・例文・類語

ブラマンテ

  1. ( Donato Bramante ドナト━ ) イタリアの建築家。ルネサンス建築様式の完成者。ミラノローマで活躍し、多くの宗教建築を残す。サンピエトロ寺院再建の第一次案は彼によるもの。(一四四四‐一五一四

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「ブラマンテ」の意味・わかりやすい解説

ブラマンテ
Donato Bramante
生没年:1444-1514

イタリア盛期ルネサンス最高の建築家。15世紀のフィレンツェに始まった古代建築に範を求める建築運動は,16世紀初頭の彼の作品において,それ独自の古典的秩序を獲得するに至った。すなわち彼の作品にあっては,初期ルネサンスの建築が求めた全体の均整の中でしだいに強さを増してきたその構成要素が,全体とぎりぎりの均衡を保っているのが見られる。彼の建築のこの完成度は,すでに16世紀後半の建築家たちの認めるところであり,セルリオパラディオの建築書では,彼の作品のみが古典と同等の扱いを受けている。しかしまた同時に彼の建築の中には,つづくマニエリスムの時代の主題がすでに内包されており,彼は明らかに同世代のレオナルド・ダ・ビンチなどとともに,時代の分水嶺をかたちづくっているのである。

 ウルビノ近郊の生れといわれ,33歳までの経歴はよくわからない。おそらくウルビノの宮廷の人文主義的な雰囲気のなかで,まず画家として出発したもののようである。ピエロ・デラ・フランチェスカマンテーニャの訓育を受けたという伝えがあるし,ウルビノの宮廷に伺候したのがもし事実ならば,フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニに会い,その建築に触れることもあったはずである。その後ベルガモで働いた記録があるが,1480年前後にはミラノへ来てスフォルツァ家に建築家として仕えていたようである。ミラノでの最初の仕事は,サンタマリア・プレッソ・イン・サティロ聖堂であり,この奥行きのない古い堂宇の改装において,彼は透視図法を利用した仮装の内陣のだまし絵を描き,スペースを広く見せかけた。直接の記録は残っていないが,傍証から,ミラノのサンタ・マリア・デレ・グラーツィエ修道院の頭部は,彼が手がけたものと考えられている。これはおそらくスフォルツァ家の廟所としての意味をもつもので,99年のフランス軍侵入によって未完成のままブラマンテはローマに去る。レオナルド・ダ・ビンチがちょうど同時期にスフォルツァ家に伺候していたのも興味深い事実で,ブラマンテがのちにサン・ピエトロ大聖堂の計画案に示したようなロンバルディア風の集中式の会堂構成は2人の共通の関心事だったらしい。

 ローマに赴いた彼は,またたくまにその様式を完成させていく。サンタ・マリア・デラ・パーチェの回廊と,聖ペテロの殉教の地を記念するテンピェットとは,ともに小品ながら彼の円熟を証するものであり,とくに後者は建築における盛期ルネサンスを象徴する存在といえよう。しかしなにより重要なのは,彼が教皇ユリウス2世のもとでサン・ピエトロ大聖堂の改築に取り組んだことである。工事は1506年に始まったが,その規模があまりにも壮大であったため,その完成は17世紀に入ってのことであり,彼の当初の計画とはまったく異なったものになったものの,ルネサンスからバロックに至るほとんどの巨匠の手の跡を残す記念碑的な建築となった。また彼が教皇庁の建物と離屋ベルベデーレとを2本のギャラリーで結んでつくったテラスを重ねる中庭の構成は,16世紀のイタリア庭園の展開に大きな示唆を与えている。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ブラマンテ」の意味・わかりやすい解説

ブラマンテ
ぶらまんて
Donato Bramante
(1444ころ―1514)

盛期ルネサンスの代表的イタリアの建築家、画家。本名はDonato d'Angelo Lazzari。ウルビーノ近郊に生まれる。ウルビーノでマンテーニャ、ピエロ・デッラ・フランチェスカらの影響下に修業時代を過ごしたと思われる。1481年までにミラノ宮廷に仕えるところとなり、現在知られる最初の建築作品は同地のサンタ・マリア・プレッソ・サン・サティロ教会(1482起工)である。これは9世紀の建築の大改造であったが、ここでブラマンテは、敷地の制約から奥行のとれない祭壇部を遠近法を駆使しただまし絵的構成で巧みに処理し、細部ではアルベルティ、ブルネレスキをよく学んでいたことを示している。また、ミラノにいたレオナルド・ダ・ビンチの影響に起因するといわれる集中式平面への志向の萌芽(ほうが)もここにみられ、これはブラマンテ終生のテーマとなる。ほかにミラノでは、ゴシック的なこの地方の様式にも深い理解を示すサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会交差部より東の部分(1485~97)などを手がけた。

 1499年ローマに移り、サンタ・マリア・デッラ・パーチェ教会の回廊(1500)で簡素な二層の列柱に絶妙の比例を与え、さらにサン・ピエトロ・イン・モントリオ教会中庭の円形小堂(テンピエツト)(1502以降)では、ローマ時代の建築から借用した理念を独自に拡張し、調和ある理想的空間を創出する。教皇ユリウス2世が即位するとその主任建築家となり、巨大な回廊に古代の別荘(ビラ)の再生をねらったバチカンの中庭ベルベデーレ、サンタ・マリア・デル・ポポロ教会回廊(1505~09)、ラファエッロが一時住んだパラッツォ・カプリーニ(1514)などでさらに力強い古典的表現に新境地を開いていった。そしてサン・ピエトロ大聖堂の計画に集中式建築の大成を計ったが、工事中に教皇が没して中断され、すぐブラマンテ自身も世を去った。しかし「古代をよみがえらせた人」(セルリオ)とたたえられたブラマンテの作品は、古典主義建築の頂点にたつものとして後世に強い影響を与え続けた。

[末永 航]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ブラマンテ」の意味・わかりやすい解説

ブラマンテ
Bramante, Donato

[生]1444. モンテ・アスドルバルド
[没]1514.4.11. ローマ
イタリア盛期ルネサンスを代表する建築家。本名 Donato d'Angelo Lazzari。ウルビノで基礎修業を積んだのち,1477~99年に北イタリア,ロンバルディア地方で活動した。初めベルガモ,次いでミラノに行き,サン・サティロ聖堂を設計 (1479以後) 。その聖器室の八角形平面は,彼が終生追究する集中式聖堂の主題の最初の現れとして注目される。同地のサンタ・マリア・デレ・グラツィエ聖堂の内陣部 (1492~97) も彼の手になるが,ここでも集中式聖堂への強い傾倒が認められる。ミラノでは,イル・モーロの居城カステロ・スフォルツェスコの改築や室内装飾にも従事し,パビア大聖堂の建立にも関与している。 1499年にローマに出て,サンタ・マリア・デラ・パーチェ修道院の回廊を設計 (1504,あるいはそれ以後という説もある) 。その中庭には,2層の列柱構成に細心の配慮が凝らされた。サン・ピエトロ・イン・モントーリオ聖堂中庭のテンピエット (1502) では,古代の円形神殿に範をとりながらも,新しい建築理念に適合させて,端正な比例と調和ある空間構成に上昇感を生み出している。その後,教皇ユリウス2世に重用され,バチカン宮の諸建築やサン・ピエトロ大聖堂の再建工事 (1506起工) に取り組んだ。大聖堂の改築においては,ギリシア十字形を採用して集中的な幾何学形態を強く打ち出し,その典型の実現をはかろうとしたが,業なかばにして没した。彼の手になるバチカン宮のベルベデーレの中庭は,16世紀におけるイタリア式庭園の展開を予想させるものである。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

百科事典マイペディア 「ブラマンテ」の意味・わかりやすい解説

ブラマンテ

イタリア・ルネサンスの代表的建築家。本名Donato d'Angelo Lazzari。1472年―1499年ミラノで活動し,サンタ・マリア・デレ・グラーツィエ聖堂のコアイヤなどを設計。のちローマに移り,1504年以後は教皇ユリウス2世のもとで働き,ローマのサン・ピエトロ・イン・モントリオのテンピエット,サンタ・マリア・デレ・パーチェ修道院などのほか,サン・ピエトロ大聖堂の改築プランなどを残した。その建築はクーポラを中心として,壮大で,簡素な調和美を示し,盛期ルネサンス建築における古典的様式の頂点となった。
→関連項目サンガロ[一族]サンソビーノバチカン宮殿パラディオラファエロ

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「ブラマンテ」の解説

ブラマンテ
Bramante (本名 Donato d'Angelo)

1444~1514

イタリア盛期ルネサンスの建築家。ウルビーノ近郊に生まれ,ローマで没。画家として修業したのち建築に転じる。ミラノで活躍したのち,1499年末にローマに移り,サン・ピエトロ・イン・モントリオ聖堂のテンピエット(円堂形式の記念礼拝堂),ヴァチカン宮殿の増改築などを手がける。数理的合理性と調和に裏づけられた荘重なルネサンス様式の完成者として名声を博した。1504年以降サン・ピエトロ大聖堂の主任建築家となる。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「ブラマンテ」の解説

ブラマンテ
Bramante 本名 Donato d'Agnolo(d'Angelo)

1444〜1514
イタリアのルネサンス盛期の代表的建築家
ウルヴィノの生まれ。ローマで古代建築を研究して中央ドーム型の聖堂(ルネサンス様式)を創始し,多くの傑作を残した。ユリウス2世の依頼によりサン−ピエトロ大聖堂の改築に取りくんだが死去した。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のブラマンテの言及

【サン・ピエトロ大聖堂】より

…創建時の旧聖堂は使徒ペテロの墓の上に位置する5廊のバシリカ式教会堂であったが,老朽化したため,15世紀の教皇ニコラウス5世(在位1447‐55)が全面的改修に着手した。一流の建築家が参加した新大聖堂の建設はイタリア・ルネサンス最大の建築事業で,とくにブラマンテミケランジェロの果たした役割は大きい。ブラマンテは,教皇ユリウス2世の依頼で,四隅に塔,中央に半球単殻ドームをもつギリシア十字形平面の設計案を用意し,その没後はラファエロ,A.daサンガロ(イル・ジョバネ)が建設主任となった。…

【テンピェット】より

…小神殿を意味するイタリア語で,古代ローマ時代に多くの作例をみるが,固有名詞としては,ローマにあるブラマンテ作の円形プランの殉教記念堂をさす。高さ約14mのこの小堂は,スペイン王フェルナンド2世と后イサベルの依頼により,1502年ペテロの殉教地と信じられていたローマのサン・ピエトロ・イン・モントリオS.Pietro in Montorio修道院の中庭に建てられた。…

※「ブラマンテ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

仕事納

〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...

仕事納の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android