イタリア盛期ルネサンス最高の建築家。15世紀のフィレンツェに始まった古代建築に範を求める建築運動は,16世紀初頭の彼の作品において,それ独自の古典的秩序を獲得するに至った。すなわち彼の作品にあっては,初期ルネサンスの建築が求めた全体の均整の中でしだいに強さを増してきたその構成要素が,全体とぎりぎりの均衡を保っているのが見られる。彼の建築のこの完成度は,すでに16世紀後半の建築家たちの認めるところであり,セルリオやパラディオの建築書では,彼の作品のみが古典と同等の扱いを受けている。しかしまた同時に彼の建築の中には,つづくマニエリスムの時代の主題がすでに内包されており,彼は明らかに同世代のレオナルド・ダ・ビンチなどとともに,時代の分水嶺をかたちづくっているのである。
ウルビノ近郊の生れといわれ,33歳までの経歴はよくわからない。おそらくウルビノの宮廷の人文主義的な雰囲気のなかで,まず画家として出発したもののようである。ピエロ・デラ・フランチェスカやマンテーニャの訓育を受けたという伝えがあるし,ウルビノの宮廷に伺候したのがもし事実ならば,フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニに会い,その建築に触れることもあったはずである。その後ベルガモで働いた記録があるが,1480年前後にはミラノへ来てスフォルツァ家に建築家として仕えていたようである。ミラノでの最初の仕事は,サンタ・マリア・プレッソ・イン・サティロ聖堂であり,この奥行きのない古い堂宇の改装において,彼は透視図法を利用した仮装の内陣のだまし絵を描き,スペースを広く見せかけた。直接の記録は残っていないが,傍証から,ミラノのサンタ・マリア・デレ・グラーツィエ修道院の頭部は,彼が手がけたものと考えられている。これはおそらくスフォルツァ家の廟所としての意味をもつもので,99年のフランス軍侵入によって未完成のままブラマンテはローマに去る。レオナルド・ダ・ビンチがちょうど同時期にスフォルツァ家に伺候していたのも興味深い事実で,ブラマンテがのちにサン・ピエトロ大聖堂の計画案に示したようなロンバルディア風の集中式の会堂構成は2人の共通の関心事だったらしい。
ローマに赴いた彼は,またたくまにその様式を完成させていく。サンタ・マリア・デラ・パーチェの回廊と,聖ペテロの殉教の地を記念するテンピェットとは,ともに小品ながら彼の円熟を証するものであり,とくに後者は建築における盛期ルネサンスを象徴する存在といえよう。しかしなにより重要なのは,彼が教皇ユリウス2世のもとでサン・ピエトロ大聖堂の改築に取り組んだことである。工事は1506年に始まったが,その規模があまりにも壮大であったため,その完成は17世紀に入ってのことであり,彼の当初の計画とはまったく異なったものになったものの,ルネサンスからバロックに至るほとんどの巨匠の手の跡を残す記念碑的な建築となった。また彼が教皇庁の建物と離屋ベルベデーレとを2本のギャラリーで結んでつくったテラスを重ねる中庭の構成は,16世紀のイタリア庭園の展開に大きな示唆を与えている。
執筆者:横山 正
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盛期ルネサンスの代表的イタリアの建築家、画家。本名はDonato d'Angelo Lazzari。ウルビーノ近郊に生まれる。ウルビーノでマンテーニャ、ピエロ・デッラ・フランチェスカらの影響下に修業時代を過ごしたと思われる。1481年までにミラノ宮廷に仕えるところとなり、現在知られる最初の建築作品は同地のサンタ・マリア・プレッソ・サン・サティロ教会(1482起工)である。これは9世紀の建築の大改造であったが、ここでブラマンテは、敷地の制約から奥行のとれない祭壇部を遠近法を駆使しただまし絵的構成で巧みに処理し、細部ではアルベルティ、ブルネレスキをよく学んでいたことを示している。また、ミラノにいたレオナルド・ダ・ビンチの影響に起因するといわれる集中式平面への志向の萌芽(ほうが)もここにみられ、これはブラマンテ終生のテーマとなる。ほかにミラノでは、ゴシック的なこの地方の様式にも深い理解を示すサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会交差部より東の部分(1485~97)などを手がけた。
1499年ローマに移り、サンタ・マリア・デッラ・パーチェ教会の回廊(1500)で簡素な二層の列柱に絶妙の比例を与え、さらにサン・ピエトロ・イン・モントリオ教会中庭の円形小堂(テンピエツト)(1502以降)では、ローマ時代の建築から借用した理念を独自に拡張し、調和ある理想的空間を創出する。教皇ユリウス2世が即位するとその主任建築家となり、巨大な回廊に古代の別荘(ビラ)の再生をねらったバチカンの中庭ベルベデーレ、サンタ・マリア・デル・ポポロ教会回廊(1505~09)、ラファエッロが一時住んだパラッツォ・カプリーニ(1514)などでさらに力強い古典的表現に新境地を開いていった。そしてサン・ピエトロ大聖堂の計画に集中式建築の大成を計ったが、工事中に教皇が没して中断され、すぐブラマンテ自身も世を去った。しかし「古代をよみがえらせた人」(セルリオ)とたたえられたブラマンテの作品は、古典主義建築の頂点にたつものとして後世に強い影響を与え続けた。
[末永 航]
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1444~1514
イタリア盛期ルネサンスの建築家。ウルビーノ近郊に生まれ,ローマで没。画家として修業したのち建築に転じる。ミラノで活躍したのち,1499年末にローマに移り,サン・ピエトロ・イン・モントリオ聖堂のテンピエット(円堂形式の記念礼拝堂),ヴァチカン宮殿の増改築などを手がける。数理的合理性と調和に裏づけられた荘重なルネサンス様式の完成者として名声を博した。1504年以降サン・ピエトロ大聖堂の主任建築家となる。
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…創建時の旧聖堂は使徒ペテロの墓の上に位置する5廊のバシリカ式教会堂であったが,老朽化したため,15世紀の教皇ニコラウス5世(在位1447‐55)が全面的改修に着手した。一流の建築家が参加した新大聖堂の建設はイタリア・ルネサンス最大の建築事業で,とくにブラマンテとミケランジェロの果たした役割は大きい。ブラマンテは,教皇ユリウス2世の依頼で,四隅に塔,中央に半球単殻ドームをもつギリシア十字形平面の設計案を用意し,その没後はラファエロ,A.daサンガロ(イル・ジョバネ)が建設主任となった。…
…小神殿を意味するイタリア語で,古代ローマ時代に多くの作例をみるが,固有名詞としては,ローマにあるブラマンテ作の円形プランの殉教記念堂をさす。高さ約14mのこの小堂は,スペイン王フェルナンド2世と后イサベルの依頼により,1502年ペテロの殉教地と信じられていたローマのサン・ピエトロ・イン・モントリオS.Pietro in Montorio修道院の中庭に建てられた。…
※「ブラマンテ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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