精選版 日本国語大辞典 「ブルックナー」の意味・読み・例文・類語
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
オーストリアの作曲家。教育者を父としてアンスフェルデンに生まれ,敬虔なカトリック信仰の環境に育った。幼少よりオルガンなどの楽器に親しみ,11歳で作曲を試みた。1837年ザンクト・フロリアン修道院合唱児童を皮切りに,55年までにオーバーエスターライヒ各地で助教師,オルガン奏者を務めるかたわら,音楽理論を学んだ。ザンクト・フロリアンの臨時オルガン奏者に続いて,56年リンツ大聖堂オルガン奏者の要職に就き,68年まで教会音楽家,合唱指揮者として活躍。このリンツ時代に作曲の勉強に本格的に取り組み,ウィーン音楽院のゼヒターSimon Sechterに通奏低音と和声学,対位法を,指揮者・チェロ奏者O.キツラーに楽式と管弦楽法を師事。後者の影響でR.ワーグナーら新ドイツ楽派の音楽を知り,同時に交響曲の創作に着手した。68年以降ウィーンに定住し,ウィーン音楽院教授(1868-91),ウィーン大学講師(1875-94)などを歴任,91年にはウィーン大学より名誉博士号を授与された。ウィーン時代の初期に2度にわたって国外のオルガン・コンクールで絶賛を博し,卓越したオルガン奏者としての評価を国際的なものとした。また作品も少しずつ演奏され,77年の《第3交響曲》初演は失敗に終わったものの,84年の《第7交響曲》初演では大成功をおさめ,交響曲の作曲家としても徐々に名声を高めていった。一方,73年に始まるワーグナーとの親交は,ウィーンの有力な批評家で反ワーグナー派の筆頭E.ハンスリックの反感を買い,このことが彼の後半生にとって少なからぬ障壁となった。
ブルックナーは教会音楽と交響曲の分野で19世紀後半を代表する作曲家であるが,後期ロマン派という時代様式の中では特異な存在であった。彼の作風は当時のいずれの楽派にも属さず,カトリック信仰を精神的基盤として,イタリア・ルネサンス以来の対位法とオーストリアの地方教会音楽の伝統,ベートーベン,シューベルトらの古典的な絶対音楽の形式,加うるにワーグナーの近代的和声法と管弦楽法が混在している。オルガン的発想の音響と大規模な造形をもつ交響曲はなかなか世間に認められず,しばしば自ら(場合によっては弟子)による改訂を余儀なくされ,複雑な異稿問題を残した。主要作品として,交響曲11曲(習作ヘ短調,〈第0番〉から未完の第9番まで),数曲のミサ曲,《テ・デウム》および《詩篇第150篇》,多数のモテット,弦楽五重奏曲ヘ長調などがある。作品全集には,第2次大戦を境に新旧二つのシリーズがある。
執筆者:土田 英三郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報
…1811ころ‐28)は,本領のリート(歌曲)の曲想を生かしつつ,断片動機の集中的展開よりもむしろそれ自体で充足した旋律をのびのびと歌わせ,和声的色彩で陰影を施しながら反復させるという独特な形式感を打ち出している。第7番(従来の番号付では第8番)《未完成》(1822)と第8番(同じく第7番ないし第9番)《ザ・グレート》(1828)では,トロンボーンが定着し,規模も拡大されて,後のブルックナーを思わせるような息の長い呼吸が認められる。 その他,初期ロマン派交響曲では,メンデルスゾーン(初期の弦合奏主体の13曲と,1824‐42の5曲)とシューマン(未完とスケッチのほか,1841‐51の4曲)が重要である。…
… 19世紀の後半,とくにその70年代以降のロマン主義は,〈後期ロマン主義Spätromantik〉の名でよく呼ばれる。ここには普通,ブラームス,ブルックナーに始まってフーゴー・ウォルフ,マーラー,シェーンベルクやR.シュトラウスの初期に豊かな全体が収められる。しかし19世紀後半から20世紀初めにかけての音楽が示す多様な相は,もはやロマン主義の一元で処理することはできない。…
※「ブルックナー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
3/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
2/13 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
1/12 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
12/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/10 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新