ドイツの医学者。東京帝国大学医学部に26年間にわたって在任、単に内科学教師にとどまらず、宮中、貴顕にも信任厚く、日本の学術文化のよき理解者であり、指導者、助言者であった。1849年南ドイツのビーティヒハイムに生まれ、1866年チュービンゲン大学で医学を修め、ライプツィヒ大学で臨床を学んだ。この間見習軍医としてプロイセン・フランス戦争に参加、復学後1872年ドクトルとなり、1876年内科学教授ウンダーリヒの下で講師となった。ここで日本赴任の交渉を受け、2年間の予定で1876年(明治9)横浜に到着した。
ベルツの日本における最大の貢献は、単なる医療技術の伝達者としてではなく、ドイツの大学の特徴である「研究」の方法論を帝国大学に伝え、当時の日本に多発していた寄生虫病、急性・慢性伝染病、脚気(かっけ)などの本体究明に手をつけたことであった。その意味でベルツは、ヨーロッパが生み出した近代科学の思想と方法を日本に体系的に伝えた最初の外国人であった。化粧水「ベルツ水」を考案したことでも知られる。1888年、日本人荒井花子(1864―1937)と結婚、1男1女をもうけた。1905年(明治38)、日露戦争での日本の勝利が確定的となり、自ら指導した日本医学近代化の成果を目前にしつつ帰国。その後も「日本人ベルツ」とあだ名されるほどの知日家として執筆や講演に活躍し、貴族に列せられた。1913年大動脈瘤(りゅう)のため64歳で死去した。
[神谷昭典 2018年8月21日]
『鹿島卯女著『ベルツ花』(1972・鹿島研究所出版会)』▽『トク・ベルツ編、菅沼竜太郎訳『ベルツの日記』上下(岩波文庫)』
(酒井シヅ)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
明治期に来日したドイツ人医師で,医学界を中心に大きな影響を与えた。シュワーベン地方のビーティヒハイムに生まれ,チュービンゲンとライプツィヒ大学で医学を修め,ライプツィヒのK.R.A.ブンダーリヒ内科に就く。1876年に東京医学校(東京大学医学部の前身)に招かれ,内科学,生理学,病理学,産婦人科学,精神病学などを講じ,診療に従事した。外科のJ.スクリバとともに日本の医学教育に大きな役割を果たす。当時日本に多かった脚気,恙虫(つつがむし)病などの研究のほか,人類学的研究《日本人の身体的特徴について》,温泉の医学的研究なども行う。日本の伝統武術にも大きな関心を寄せ,その推奨に尽力。その意義を本国で出版の《嘉納柔術》などでも紹介。また,海水浴の推奨や海水浴場の選定を行うなど,近代日本の保健衛生・体育・スポーツ分野にも大きな影響を与えた。1902年東大退職後,宮内省御用掛・侍医局顧問となり,1905年帰国。息子トクの編集した《ベルツの日記》が有名。夫人は日本人・花(はな)。シュトゥットガルトで死亡。彼の創始になる〈ベルツ水〉は皮膚外用薬としてよく用いられた。
執筆者:長門谷 洋治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
1849.1.13~1913.8.31
明治期のドイツ人御雇外国人医師。ビーティヒハイム生れ。チュービンゲン大学で基礎医学を学び,ライプチヒ大学で内科学教授ブンダーリヒにつき同大学を卒業。1876年(明治9)東京医学校(のちの東京大学医学部)の教師招聘に応じ,6月に来日。1902年まで26年間にわたっておもに内科学を教え,病理学や精神医学なども担当。その後3年間,宮内省御用掛(侍医)になり,05年6月帰国。この間,恙虫(つつがむし)病や脚気など多くの研究を発表。人々の身近な健康問題に注意をはらい,温泉・スポーツ・海水浴の効用を説いた。在日中に書いた日記「ベルツの日記」がある。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…その後,この2人の軍医のほかに医学者や科学者がつぎつぎと来日して教壇に立ち,一方,この学校で学んだ卒業生のうち,教授候補に選ばれたものはつぎつぎとドイツへ国費留学させられ,帰国して,ドイツ人の先任者と交代した。1900年最後のドイツ人教師E.vonベルツが退任,入沢達吉が後をついだ時点で,全員が日本人教授によることになった。中央でのこのような動きに呼応して,地方でも,旧藩時代の医学教育施設を接収,外国人教師を雇って拡充に努めるところもあり,また,とくに地方住民の医療要求にこたえるために,国公立病院の設置も盛んで,1877年ころには,病院のない府県はほとんどなくなり,さらに増加していった。…
…国葬,翌年正一位を追贈された。岩倉の病状をみとったドイツ人ベルツは,岩倉を評して〈全身ただこれ鉄の意志〉と述べた。この〈鉄の意志〉は,幕末以来岩倉がつねにクーデタないし政変の推進者または協力者であったことに示されており,それはまた彼が権謀術数の政治家であったことを物語っている。…
… 顔の色調と性格については〈赤い顔には心を明かし,茶色い顔には茶をすすめ,青白い顔にはナイフをかざし,黒い顔からワイフを隠せ〉というし,また〈赤い顔は賢く,日焼け顔には信用がおけるが,青白い顔は嫉妬深く,黒けりゃ強健〉ともいう。 ベルツは日本人の体型を3種族に分け,在日本満韓種族は上流社会に多くみられてその顔は長くて頰骨はあまり秀でず,広く平らな顔で頰骨のそびえた在日本固有蒙古種族は下流社会によくみられ,在日本マレー人種が日本では優勢で,顔は円いか角立って頰骨が出ているといった(《日本人の体格》)。長州型と薩摩型という語も彼に由来する。…
…こうして築かれた江戸期の精神医学も,明治時代に入ると,ほかの漢方系医学と同じく急速に衰退し,西欧系の精神医学が代わって採用される。その最初の紹介が神戸文哉(かんべぶんさい)によるJ.R.レーノルズ編《内科学全書》(1872)中のH.モーズリー著〈精神病〉の章の訳出で,1876年に《精神病約説》を表題として刊行され,また,3年後には最初の精神医学の講義が御雇外国人の内科教師E.vonベルツにより現在の東大医学部で行われた。 ちなみに,日本では明治以後〈精神病学〉という用語が長く使われ,〈精神医学〉がそれに代わったのは第2次大戦以後のことで,後者は時の東大教授内村祐之の訳語といわれる。…
…【金沢 知博】
【疾病史】
秋田,山形,新潟3県の日本海にそそぐ雄物川,最上川,阿賀野川,信濃川の中・下流地帯では,昔から夏になると,川沿いの草原に入った農民や旅人の間に,突然高熱を発し,体中に赤い発疹が現れ,譫妄(せんもう)状態になり,10人に4~5人は14~15日から20日のうちに死んでいくふしぎな熱病があったが,これが恙虫病であった。ベルツは〈日本洪水熱〉と名づけたが,ツツガムシと呼ばれるダニの幼虫が媒介することは,1899年に秋田の医師田中敬助によって確かめられ,その病原体がリケッチアであることは昭和に入って発見された。山形県南部の最上川中流には,江戸時代から〈病河原〉と呼ばれた河原があり,ケダニといわれた毒虫の病毒で命を失う者が多かったが,これも恙虫病であった。…
…ただし,〈なか高き顔して,色のあはひ白きなど,人にすぐれた〉(《紫式部日記》)貴族もいたし,武将や将軍の肖像画を信じれば,鼻筋の高く通った人々もいたのである。明治期に東大で医学を教えたE.vonベルツは当時の日本人の鼻を3種に分類している。第1は〈曲りて高き鼻,……此種族は元朝鮮より来り,日本の西北海岸に位する出雲国を分布の中心〉として〈日本に於ては特に之を上流社会に見るを得べし〉,第2は〈稍々平たき鼻,……該型は日本にては余り普通にあらざれども,間々之を下流社会に見ることあり〉,第3は〈日本に於て優勢なる分子〉で,〈鼻は低く,……此種族は何時しか南方より来り,最初は九州に勢力を占め,其処より黒潮と称せらる,北向の暖潮流に乗じて更に本州に向ひし〉という(《日本人の体格》)。…
※「ベルツ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新