日本大百科全書(ニッポニカ) 「ペリー」の意味・わかりやすい解説
ペリー(Gaylord Jackson Perry)
ぺりー
Gaylord Jackson Perry
(1938―2022)
アメリカのプロ野球選手(右投右打)。大リーグ(メジャー・リーグ)のサンフランシスコ・ジャイアンツ、クリーブランド・インディアンス、テキサス・レンジャーズ、サンディエゴ・パドレス、ニューヨーク・ヤンキース、アトランタ・ブレーブス、シアトル・マリナーズ、カンザスシティ・ロイヤルズで投手としてプレー。両リーグでサイ・ヤング賞(最優秀投手賞のこと)を受賞し、通算314勝をあげた。
9月15日、ノース・カロライナ州ウイリアムストンで生まれる。1958年、ジャイアンツに入団。1962年に大リーグ初昇格を果たし、当初はおもに救援として起用された。1966年にほぼ先発専任となると、21勝をマーク。1968年にはノーヒットノーランを達成し、1970年には23勝で最多勝も獲得した。投げる前に繰り返し帽子のつばや耳の後ろに指をもっていき、いかにもスピットボール(ボールに唾液(だえき)などの異物を付着させて投げる不正投球)を投げるような格好をして打者を撹乱(かくらん)した。しかし、引退まぎわまで証拠をつかまれることはなかった。1972年にインディアンスへ移籍すると、24勝で2回目の最多勝を獲得し、サイ・ヤング賞を受賞した。1975年の途中でレンジャーズにトレードされてからは短い周期でチームを転々とするようになったが、1978年にはパドレスで21勝して最多勝となり、2回目のサイ・ヤング賞にも選ばれた。1983年、マリナーズとロイヤルズで7勝14敗に終わると、同年限りで引退した。
22年間の通算成績は、登板試合777、投球回5350と3分の1、314勝265敗、セーブ11、防御率3.11、奪三振3534、完投303、完封53。獲得したおもなタイトルは、最多勝利3回、サイ・ヤング賞2回。1991年に野球殿堂入り。
[山下 健]
ペリー(Matthew Calbraith Perry)
ぺりー
Matthew Calbraith Perry
(1794―1858)
アメリカ海軍軍人。4月10日、現在のロード・アイランド州ニューポートに生まれる。父クリストファー・レイモンド、長兄オリバー・ハザード、次兄レイモンドも海軍軍人で、彼は三男。1809年海軍に入り、西インド、地中海、アフリカなど各地に勤務し、その間、1833年1月にニューヨークのブルックリン海軍工廠(こうしょう)の造船所長となり、1837年にアメリカ海軍最初の蒸気船フルトン号を建造、同年海軍大佐に昇進し、1841年に同海軍工廠司令官に就任した。蒸気船を主力とする海軍力の強化策を推進するとともに、士官教育の振興、灯台施設の改善などに尽力し、アメリカ海軍の近代化の基礎を築くことに貢献した。ついで1846~1847年のアメリカ・メキシコ戦争に参加、1852年3月東インド艦隊司令長官となり、日本開国の使命を与えられた。そして同年11月、フリゲート艦ミシシッピ号を旗艦としてバージニア州ノーフォークを出航、ケープ・タウン経由シンガポール、香港(ホンコン)、上海(シャンハイ)、沖縄、小笠原(おがさわら)を経て、1853年7月8日(嘉永6年6月3日)浦賀に入港した。久里浜(くりはま)で浦賀奉行(ぶぎょう)に大統領フィルモアの国書を手交し、開国を要求したが、翌年までの猶予を求められて退去した。同年10月30日(和暦9月28日)小笠原島を占領したが、これは本国政府の承認するところとはならなかった。翌1854年2月13日(嘉永7年正月16日)、ふたたび旗艦サスケハナ号以下軍艦7隻を率いて江戸湾金沢沖に至り条約締結を求め、3月31日(和暦3月3日)神奈川で林大学頭(だいがくのかみ)、井戸対馬守(つしまのかみ)、伊沢美作守(みまさかのかみ)、鵜殿民部少輔(うどのみんぶのしょう)らと日米和親条約を調印、さらに下田(しもだ)で日米和親条約付録に調印(1854年6月18日=嘉永7年5月22日)、下田・箱館(はこだて)2港を開き、漂流民保護、欠乏品供給、領事駐在、最恵国待遇などを決めた。帰途、琉球(りゅうきゅう)王国と通商条約を調印、香港に戻り、のちオランダを経て1855年1月11日帰国した。1858年3月4日、ニューヨークで死去。
ペリー日本遠征の公式記録として、フランシス・ホークスを編纂(へんさん)主幹として1856~1860年に刊行された遠征記3巻Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Sea and Japan, performed in the years 1852, 1853 and 1854(邦訳『ペルリ提督日本遠征記』)があるが、これとは別に、ロジャー・ピノーによって1968年に刊行された『ペリー日本遠征私日記』The Japan Expedition 1852~1854, The Personal Journal of Commander Matthew C. Perryがある。
[加藤榮一]
『土屋喬雄・玉城肇訳『ペルリ提督日本遠征記』全4冊(岩波文庫)』
ペリー(John Perry)
ぺりー
John Perry
(1850―1920)
イギリスの工学者。アイルランドに生まれる。ベルファスト市の小学校を終了後、製図や模型製作に従事した。1868年クイーンズ・カレッジに入学、工学を修めた。1870年優秀な成績で卒業、金メダルを得た。イングランドに移ってブリストル市のクリフトン・カレッジで数学、物理学の教師を務めた。1874年にグラスゴー大学のW・トムソン(ケルビン)の助手となり、1875年(明治8)には日本の工部大学校(現在の東京大学工学部)の助教授となり、数学を教えた。当時日本では一般には知られていなかった方眼紙を紹介して広く使用させた。在日4年ののちイギリスに帰り、クイーンズベリの技術大学で数学、機械工学、電気工学を教えた。のちにロンドン・テクニカル・サイエンス教授となり、力学、数学を教えた。ロイヤル・ソサイエティー会員、物理学会会長などを務め、1920年健康を害し、保養のため南アメリカに渡ったが効果なく、帰国後没した。
[中山秀太郎 2018年8月21日]
ペリー(Ralph Barton Perry)
ぺりー
Ralph Barton Perry
(1876―1957)
アメリカの哲学者。プリンストン大学卒業後、ハーバード大学で学位をとる。1902年より44年間ハーバード大学で哲学を教える。新実在論の立場にたち、自然主義的な価値論を展開した。彼によれば、外界は人間の心とは独立に実在しており、心に直接提示されることによって外界の認識が成立する。また価値に関しては、価値があるということは、関心がもたれることである、という。さらに彼は、個々人の積極的関心の調和を最高善と考え、個人の意志と社会の意志の反省的同意を説いた。著書に『一般的価値論』(1926)、『ウィリアム・ジェームズの思想と性格』(1935)、『ピューリタニズムと民主主義』(1935)、『価値の領域』(1954)などがある。
[魚津郁夫 2015年10月20日]