コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

ボニファティウス Bonifatius

4件 の用語解説(ボニファティウスの意味・用語解説を検索)

大辞林 第三版の解説

ボニファティウス【Bonifatius】

675?~754) イギリス生まれのベネディクト修道会士。教皇の支持を得てフランク王国内の宣教を推進。「ドイツの使徒」といわれる。
(八世)(1234頃~1303) 教皇(在位1294~1303)。ローマ教皇権の絶対優位性を主張し積極的に世俗権力と争う。教会への課税に反対し、フランス王フィリップ四世に幽閉された。以後、教皇権の衰退が始まった。

出典|三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版の解説

ボニファティウス【Bonifatius】

680‐754
中世初期にドイツへのキリスト教伝道を行った司教。〈ドイツ人の使徒〉と呼ばれるイングランドデボンシャーのクレディトンに生まれ,7歳で修道院に入る。本名はウィンフリードWinfrid。716年フリースラントに伝道するが失敗して帰国,翌年ローマに向かい教皇グレゴリウス2世から異教伝道の許可とボニファティウス(善行をなす者)の名を与えられ,ヘッセンで活動し数千の受洗者を得る。722年第2回目のローマ訪問で司教座なしの司教に任命され,教皇の全面的支援を保証される。

ボニファティウス【Bonifatius】

?‐432
ローマ帝国末期の武将。423‐432年アフリカ軍司令官ガラ・プラキディアに忠誠を尽くしていたが,427年おそらく対抗する有力将軍の策謀もあって一時的に彼女の不興を買い,宮廷へ召喚された。彼がこれを拒否すると征討軍が派遣され,429年第2次遠征隊はカルタゴとヒッポを占領。このアフリカでの内戦状態に乗じて,スペインにいたバンダルは同年アフリカへ渡ったが,史料が伝えるボニファティウスのバンダル招請は事実かどうか疑わしい

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ボニファティウス
ぼにふぁてぃうす
Bonifatius
(675/680―754)

キリスト教の聖人。イギリスウェセックスに貴族の子として生まれる。本名Winfrith Boniface。長じてベネディクト会の修道者となる。初めフリースラント(オランダ、ドイツの北部)に赴き、伝道に尽くしていたが、さらにチューリンゲンザクセン、ヘッセンなどドイツの奥地に入り、ゲルマン人に対する布教に活躍した。しかし最後に、異教を捨てない狂暴な者たちの襲撃を受け、殉教を遂げた。フルダの修道院に葬られ、「ドイツ伝道の使徒」と崇(あが)められている。祝日は6月5日である。伝道に際して、彼が行ったゲルマン民族の神話と習俗の記録は、現在貴重な資料となっている。[植田重雄]
『池田敏雄著『教会の聖人たち 上巻』(1977・中央出版社)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典内のボニファティウスの言及

【キリスト教】より

…ゲルマン諸族への伝道はすでに3世紀に始まり,5世紀にはアングロ・サクソン族への伝道もなされ,7世紀に入るとベネディクト会がこれに加わって活発な異民族伝道を行ってきた。ウィリブロードWillibrord(739没)と,のちにボニファティウスBonifatiusと呼ばれたウィンフリードWynfrid(754没)の活躍が特に記憶される。これにより,西方教会はコンスタンティノープルの支配とイスラム教徒の圧迫を排して自立するとともに,古代の伝統を中世に媒介することができた。…

【キリスト教】より

…ゲルマン諸族への伝道はすでに3世紀に始まり,5世紀にはアングロ・サクソン族への伝道もなされ,7世紀に入るとベネディクト会がこれに加わって活発な異民族伝道を行ってきた。ウィリブロードWillibrord(739没)と,のちにボニファティウスBonifatiusと呼ばれたウィンフリードWynfrid(754没)の活躍が特に記憶される。これにより,西方教会はコンスタンティノープルの支配とイスラム教徒の圧迫を排して自立するとともに,古代の伝統を中世に媒介することができた。…

【司教】より

…ブザンソン司教ドナトゥス,ノアヨン司教ムンモリヌス,トリール司教のゲルマヌスとヌメリアヌス,バーゼル司教ラグナカリウスなどいずれもそうである。8世紀に入るとアイルランド人に代わってアングロ・サクソン人たち,すなわちウィリブロードWillibrord(658‐739)およびボニファティウスの一行がフリースラントとゲルマニアの伝道に従事するが,彼らの活動によってフランク教会の制度は司教職を含めて大いに整備された。特に747年ボニファティウスの司会した司教会議は,この司教会議の制度,首都司教の地位,司教の職務内容,首都管区会議と司教区会議との職務分掌などを明らかにし,またローマ教皇との制度的関係をも初めて性格づけた。…

【フルダ】より

…ウェーザー川支流のフルダ川が流れる。歴史は古く,ゲルマン人のキリスト教化のためにボニファティウスが8世紀中葉に建てたベネディクト会修道院(フルダ修道院)が中心になって発展した。今日の大聖堂St.Salvator und Bonifatiusは,それまでの修道院教会のあとに,1704‐12年ヨハン・ディーンツェンホーファーがイタリアのバロック建築を手本にして造営したもの。…

【フルダ修道院】より

…ドイツ中部にある修道院。744年〈ドイツ人の使徒〉ボニファティウスが,ウェーザー川の上流のフルダFulda河畔に建設したベネディクト会修道院。初代院長ストゥルミSturmi(715ころ‐779)のもとにザクセン伝道の拠点をなした。…

【ヘッセン】より

…北部の山間の多数の小盆地は〈ヘッセンのくぼ地〉といわれる。
[歴史]
 ヘッセン人の祖先は民族移動期以後マイン川とウェラ川の間に定住したフランクの一支族カッティ族で,8世紀に〈ドイツ人の使徒〉ボニファティウスの布教によってキリスト教化されている。ヘッセンは当初王領地として国王代官に治められていたが,12世紀にチューリンゲン方伯の支配下に入ってから領邦としての独自の発展を始める。…

【ラテン文学】より

…しかし大陸の混乱の影響を受けなかったアイルランドの修道士たちの間で古典の研究と保存の伝統が持続され,7世紀初頭,彼らは大陸に進出して,スイスのザンクト・ガレンと北イタリアのボッビオに修道院を設立,ここが時代を通じて写本作りと研究の中心地になった。イングランドにも7世紀後半に,古典研究を聖書研究に不可欠とするヒエロニムス以来の考えを継承するアルドヘルムとベーダが登場し,その後継者ボニファティウスは大陸に渡って,フランク王国の教会改革に乗り出した。 8世紀中葉にカロリング朝が起こると,カール大帝の下でカロリング・ルネサンスが始まる。…

※「ボニファティウス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

ボニファティウスの関連キーワード西ドイツ東ドイツワイツゼッカー鉛銭切銀キリスト教社会同盟コレジオ統一ドイツ黄色のキリスト夏への扉

今日のキーワード

大寒

二十四節気の一つ。元来,太陰太陽暦の 12月中 (12月後半) のことで,太陽の黄経が 300°に達した日 (太陽暦の1月 20日か 21日) から立春 (2月4日か5日) の前日までの約 15日間で...

続きを読む

コトバンク for iPhone

ボニファティウスの関連情報