翻訳|Meissen
中世ドイツの辺境伯領Markgrafschaftの一つ。都市マイセンを主都としエルベ川中流域を本拠とした。この地域は,古くからエルベ川を通じての通商の要衝を占め,人口に富み,ブドウ栽培,ブドウ酒醸造,各種手工業,エルツ山脈に広がる多くの鉱山をもつ豊かな地域であった。後のザクセン王家,ウェッティン家Wettinerはここで興隆の基礎を築いた。中世初期にはこの地はスラブ人居住地域への境界地域であったが,最初の辺境伯として968年にウィグベルトWigbertが封ぜられている。983-984年のスラブ族の反乱の後,チューリンゲンで公爵権力を保有していたエッケハルト1世Ekkehard Ⅰが再建された辺境伯領を得た。しかし彼はドイツ王位をねらい失敗して殺害された。その後辺境伯はワイマール家やブラウンシュワイクのブルノンネン家から出ているが,後者出身のエクベルト2世Ekbert Ⅱも皇帝ハインリヒ4世の対立皇帝であった。しかし彼も流刑に付せられた後1088年に横死している。そしてマイセンはオストマルク辺境伯デードの息子ハインリヒ1世Heinrich Ⅰ von Eilenburgに帰したが,その息子ハインリヒ2世が継承者なしに1123年に死亡したとき,従兄弟のコンラート・フォン・ウェッティン伯Konrad von Wettinは,ザクセン公ロタールの支持をえて皇帝の意図に反してこの辺境伯領を獲得した。それ以来ウェッティン家は辺境伯領を世襲し,ここを拠点として領土を拡張していった。そして辺境伯としてウェッティン家5代目のハインリヒ3世貴顕公は,1247年にチューリンゲンを支配下に収め,オーデル川からウェッラ川まで,エルツ山脈からハルツまでという広大なウェッティン家の支配領域を確定した。1423年に,フリードリヒ1世好戦公は,アスカニア家のザクセン・ウィッテンベルク系統の絶滅の機会に,ザクセン公国(公爵領)と選帝侯の位を獲得した。こうしてウェッティン家は,選帝侯となり,その領土全体に対してザクセン公国の名称が使用されるようになった。85年にウェッティン家は,チューリンゲンを本拠とするエルンスト系統と東部を本拠とするアルベルト系統に分裂する。後者に辺境伯領マイセンも属したが,この系統は1547年に前者から選帝侯位とかなりの領土を獲得し,その後も分裂することなく,ドイツのもっとも豊かな先進的領邦の一つとして発展した。なお,同じくマイセンの名称をもつ司教領Bistumと城代伯領Burggrafschaftがあった。いずれもマイセンを本来の居城都市としていた。前者は,967年に皇帝オットー1世によって,後者は,11世紀に設立されているが,いずれも16世紀中にザクセン選帝侯の手中に帰した。
→ザクセン
執筆者:藤瀬 浩司
ドイツ東部,ザクセン州の都市。エルベ川河畔に位置し,陶磁器(マイセン磁器)で有名。人口3万8000(1985)。地名は,929年国王ハインリヒ1世が中部エルベ地域支配の拠点として建立した城砦ミスニーMisniに関連するとされる。城砦はその後辺境伯の,次いでマイセン城伯の所有となり,その近くに形成された都市的定住地ともども1089年ウェッティン家Wettinerに帰属した。都市マイセンはしだいに発展し,1316年には市参事会を持つに至っている。1710年国王アウグスト2世の下に創設された陶磁器製造所はヨーロッパ最古といわれ,市の経済的繁栄の基礎となった。1830年ころからは,繊維,機械を含む工業化も始まった。後期ゴシックの市庁舎や聖母教会など古い建築物も残る歴史的観光都市でもある。
執筆者:魚住 昌良
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ドイツ,ザクセン州の都市。もとマイセン辺境伯の居城都市。15世紀にヴェッティン家の辺境伯が宮廷をドレスデンに移したことにより,一時衰亡。18世紀にこの地の城に王室の陶磁器工房が置かれたことにより,「マイセン磁器」生産地として新たな発展をとげた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 (株)朝日新聞出版発行「とっさの日本語便利帳」とっさの日本語便利帳について 情報
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