マカオ(読み)まかお(英語表記)Macao

翻訳|Macao

共同通信ニュース用語解説 「マカオ」の解説

マカオ

中国広東省の南端、香港から南西64キロの珠江河口に位置し、総面積30平方キロ。人口は63万2千人(2018年推定)。16世紀にポルトガルが貿易権や居住権を獲得し、1887年の葡清条約で割譲。1951年にポルトガル海外県になった。87年4月に中国とポルトガルがマカオ返還に関する共同声明に調印し、99年12月20日に中国の主権が回復。香港同様、返還後も「一国二制度」の下で高度な自治が保障されている。カジノ産業が盛んなことでも知られる。(マカオ共同)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「マカオ」の意味・わかりやすい解説

マカオ
まかお / 澳門
Macao

中国南部、珠江(しゅこう)の河口西岸にある旧ポルトガル植民地。1999年の中国返還後は同国の特別行政区。香港(ホンコン)特別行政区の西方64キロメートルに位置し、広東(カントン)省に続く狭長なマカオ半島と、南方海上のタイパ島、コロアン島からなる。マカオとは古くから伝わる媽祖閣廟(マーコーミャオ)という寺院をポルトガル人が「マカオ」とよんだことに由来する。面積はわずか30.5平方キロメートル、人口64万8500(2017)、人口密度は1平方キロメートル当り約2万1000人と過密である。住民の大部分は中国人の華僑(かきょう)からなる。

 半島部は小高い丘とわずかな低地からなり、西側は広東川を隔てて中国本土と対し、北端は狭い砂州によって大陸につながっている。タイパ、コロアン両島も平野は狭く山がちで、半島部とは橋や土堤によって連結している。気候は亜熱帯モンスーン気候で、夏は高温で蒸し暑く雨が多い。冬は温和で乾燥する。

[横山昭市]

政治・経済

植民地時代はポルトガル政府が任命する総督が統治し、立法会議があった。1979年2月、ポルトガルと中国は外交関係を樹立し、マカオの主権が中国にあることを確認した。1987年には1999年12月のマカオ返還が合意された。返還後は「マカオ特別行政区基本法」に基づき、香港同様、一国二制度が摘要され、行政長官と立法会が置かれている。

 域内総生産は、1人当り7万4017ドル(2016)と世界トップクラスである。産業は観光関連事業が中心で歳入の40%以上を占め、外国からの観光客は1725万5000人(2017)に上る。観光はギャンブルが盛んで、多数のカジノがあり、歳出の3分の1以上をギャンブルの税金でまかなっている。ドッグレースも名物であったが、2018年に廃止された。工業は衣料品、花火、家具、マッチなどが生産され、とくに花火は伝統的な地場産業として知られ、アメリカなどに輸出される。貿易は、港が外航船出入りに適さないことから、香港との中継貿易が中心となっている。漁業も盛んである。

 1995年にはマカオ国際空港が開港した。

[横山昭市]

観光

アジアにおけるキリスト教布教の基地であったマカオは、セント・ポール教会跡、ペンニャ教会などの教会のほか、多くのキリスト教系の学校、病院などがある。セント・ポール教会は17世紀初めにつくられたもので、その建設にあたっては、島原(しまばら)の乱で日本から逃れた信徒も加わったと伝えられる。1835年の火災で焼け落ち、前面の壁だけが残っている。近くの丘には17世紀にポルトガルが建造したモンテの要塞(ようさい)があり、ここからはマカオ全市を一望できる。一方、マカオの名の起源となった航海の守護神を祀(まつ)る媽閣廟や観音(かんのん)堂、康公廟など中国寺院も多く、ヨーロッパと中国の文化が混在した風景がみられる。ほかに、ポルトガルの詩人カモンイスの滞在を記念する庭園と博物館、近代中国の父孫文(そんぶん)が医術を施した旧居にある孫文記念館、アジアで最古の灯台といわれるギア灯台などがある。

[横山昭市]

世界遺産の登録

2005年、ユネスコ(国連教育科学文化機関)により「マカオ歴史地区」として世界遺産の文化遺産に登録された(世界文化遺産)。

[編集部]

歴史

マカオは元来、媽祖廟のある一小港にすぎなかったが、1557年ポルトガル人は明(みん)の官軍の海賊討伐に協力した代償としてここに居住を認められた。マカオはゴア、マラッカとともにアジアにおけるポルトガルの貿易基地として重要であった。詩人カモンイスも1558年から1559年にかけてここに住んだことがある。1623年ライエルセンの率いるオランダ東インド会社の艦隊の攻撃を受けたが、よくこれを撃退した。1636年(寛永13)の日本の鎖国令によってマカオは打撃を受け、以後は中国貿易の基地となった。1680年、初めて総督が任命され、また1717年からはヨーロッパ諸国の船に開放され、広東貿易の根拠地として重要な役割を果たした。香港の開港後その重要性は低下したが、ポルトガルは1887年に清(しん)朝にここを割譲させ、正式の植民地とした。もっともその経済的な役割は局地的なものであった。

 1976年新憲章の制定によりマカオは自治領的な性格を強め、1979年中国とポルトガルが国交を樹立してからは中国の発言権が増加し、1987年の両国の合意にしたがって1999年12月に中国に返還された。

[生田 滋]


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百科事典マイペディア 「マカオ」の意味・わかりやすい解説

マカオ

中国広東省南端にあり,珠江河口の小半島と付近の2島からなる。香港から南西70キロ,珠海市に隣接する。中国では澳門,あるいは媽港と記す。住民は大半が中国人。1999年12月に中国へ返還されるまではポルトガル自治領で,ポルトガル政府の任命する総督が統治したが,返還後は香港と同様に特別行政区となった。マカオ国際空港がある。漁業を主とし,花火,玩具,菓子類などの家内工業があるが,主要財源は観光と公認の賭博(とばく)場からの収入である。中国でヨーロッパの植民地としてもっとも古い歴史があり,その遺構が数多く存在,独特の広場,街並みの景観が残っている。2005年,マカオ歴史地区として,世界文化遺産に登録された。ヨーロッパ,アフリカ,南アジアと広東料理が融合したマカオ料理も有名。日本では江戸時代に天川(あまかわ)と通称。1557年倭寇(わこう)駆逐の功で,ポルトガルが居住権を得,総督殺害を理由に1887年領有。16−17世紀には東洋におけるイエズス会宣教の根拠地で,フランシスコ・ザビエルの布教活動の拠点となった。カモンイスの居宅跡の詩仙堂など史跡も多い。日中戦争,第二次大戦では,ポルトガルは中立であったため,日本軍の侵攻はなかった。29km2。人口59万2000人(2014)。
→関連項目伊東マンショカピタン(日本史)カブラル広東[省]ジャガタラ文中華人民共和国南洋日本人町日本史ポルトガル

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改訂新版 世界大百科事典 「マカオ」の意味・わかりやすい解説

マカオ (澳門)
Macao
Ào mén

中国,広東省南部珠海市につながる南北5kmの陸繫(りくけい)島。前面のタイパ,コロワン両島とともにポルトガル植民地だった。面積16km2,人口約47万(2005),人口密度がきわめて高く,大部分中国人より成る。明代には濠鏡澳といい,清代になって澳門の名が用いられるようになった。南面の前記2島が門のような位置にあるところから生じた地名ともいい,また南部海辺に有名な媽祖廟のあるところから阿媽港,媽港といわれるようになったともいう。日本では近世初頭以来,天川(あまかわ)の名でよばれていた。1557年(嘉靖36),ポルトガル船が明の海賊討伐を援助したところから定住を許されるようになり,その後ポルトガルは居住権の維持のため年500両の貢金をおさめていた。さらに清朝の弱体化の情勢下に1827年(道光7),58年(咸豊8)に割譲を申し入れて拒否された。87年(光緒13)のポルトガルと清朝との条約の締結により,清朝はマカオおよび属島をポルトガル領として認め,以後ポルトガル植民地だったが,1999年12月中国に返還された。

 16世紀以来,ポルトガルのアジアにおける根拠地として,ゴア,マラッカとともに名高く,中国との生糸・絹織物,日本との金・銀の貿易で莫大な利益を収め,また中国,日本へのカトリック布教の基地ともなった。しかし,ポルトガル本国の弱体化やアヘン戦争後のイギリスの香港領有にともなう貿易の拡大の影響をうけて衰退し,港が浅く,後背地を欠くため,さらにこの傾向を決定的とした。現在では,小規模な家内工業による爆竹,タバコ,線香,ガラス,家具などの生産が行われ,多くは中国へ輸出され,また鮮魚や塩乾魚を香港へ供給する漁業も盛んである。なお,政庁公認の賭博場が設けられており,政庁財政に少なからぬ納入金をもたらすという。避暑地,観光地として名高く,聖パウロ寺院が東洋最初のカトリック寺院として名をはせるほか,要塞,媽祖廟,カモンイス記念公園,孫文旧居など史跡・名勝に富む美しい土地である。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「マカオ」の解説

マカオ
Aomen[中],Macao[ポルトガル,英]澳門

中国の広東省珠江(しゅこう)河口付近の都市。半島部と島からなり,16~17世紀には,ゴアマラッカとともにポルトガルのアジア貿易の根拠地として栄えた。1557年にポルトガルが明朝に協力して倭寇(わこう)を討伐したことから,ここに居留が認められた。日本では,天川(あまかわ)の名で知られ,特にキリシタン大名大村藩の長崎との間で,中国産の生糸(きいと)と日本銀との貿易が行われた。当初は租借していたが,1887年に中国から割譲を受けた。1999年にイギリスの香港にならって中国に返還された。

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世界遺産情報 「マカオ」の解説

マカオ

2005年7月のユネスコ世界遺産委員会にてマカオの8つの広場と22ヶ所の歴史的、宗教的建造物が正式に世界文化遺産に登録されました。マカオのランドマーク的存在である「聖ポール天主堂跡」や敷きつめられたモザイクタイルと周囲のポルトガル風建築が美しい「セナド広場」、マカオ最古の寺院「媽閣廟」など個々の建造物が持つ遺産的価値はもちろんのこと、約400年に渡る東洋と西洋の文明交流による文化遺産の融合も高く評価されています。

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旺文社世界史事典 三訂版 「マカオ」の解説

マカオ
Àomén 澳門

中国の珠江三角州南端にある海港都市。
明代から港として知られ,1557年ポルトガルが居住権を獲得,ゴア・マラッカと並んで東洋貿易の基地となった。16〜17世紀が最盛期だが,その後,繁栄は香港 (ホンコン) および広東 (カントン) に奪われた。1887年に正式にポルトガル領となる。1999年12月20日,中国に返還され,一国家二制度のもとで特別行政区として50年間の現状維持が認められた。

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世界大百科事典(旧版)内のマカオの言及

【大航海時代】より

…一方,ゴア以外の地域ではイエズス会による布教活動がさかんに行われるようになった。57年には澳門(マカオ)にポルトガルの基地が設置され,中国における貿易と布教の拠点となった。また1543年に偶然ポルトガル人が漂着した日本にもポルトガル船が渡航するようになった。…

【南蛮貿易】より

…1543年(天文12)ポルトガル人の種子島漂着を契機にして,ポルトガル商船および彼らのジャンク船がリャンポー(寧波(ニンポー)),マラッカ等から西南九州の鹿児島,山川,坊津,府内,平戸等の各港に来航した。ポルトガル人は57年(弘治3)中国人からマカオ居住の許可を得,同地をゴア,マラッカと日本とを結ぶ定期航路の中継地および貿易拠点として発展させ,さらに78年(天正6)には広東市場での交易権を得て日本貿易拡大のための足固めをした。彼らの日本貿易が年々盛んになった理由の一つは,当時の明政府が海禁政策をとっていたことで,このため当時途絶していた日明間の貿易を肩代りし,かつ両国間の貿易を中継する形で進展した。…

【ポルトガル】より

…正式名称=ポルトガル共和国República Portuguesa面積=9万2082km2(マカオは含まない)人口(1995)=1080万人首都=リスボンLisboa(日本との時差=-10時間)主要言語=ポルトガル語通貨=エスクードEscudoイベリア半島南西部の一隅を占める大陸本土と,大西洋上のマデイラ,アゾレス両諸島とからなる共和国。そのほか中国に海外領土澳門(マカオ)(面積16km2)を領有する。…

※「マカオ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」