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マケドニア朝 マケドニアちょう Macedonian Dynasty

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

マケドニア朝
マケドニアちょう
Macedonian Dynasty

ビザンチン帝国最盛期の王朝 (867~1056) 。創始者バシリウス1世に始り,女帝テオドラにいたるまで 16人の皇帝を輩出。国内的にはテマ制度の完成期を迎え,法制度も整い (870~879年のプロケイロン,887~893年のバシリカ法典) ,大土地所有者層に対する中小農民の保護政策が実施され,文化的にもコンスタンチヌス7世治下のマケドニア朝ルネサンスが起るなど一大繁栄期を迎えた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

マケドニア朝
まけどにあちょう

ビザンティン帝国最盛期の王朝(867~1056)。バシレイオス1世に始まり、バシレイオス2世を頂点とし、女帝テオドラに至る。この王朝の統治下でテマ制(軍管区制)が完成期に入り、内政、外政ともに充実期を迎えた。国防の担い手であるテマ兵士の増加は、納税者層の中核をなす中小自由農民層の増加ともなり、経済力の増大を意味した。対外的にもブルガリアシリアメソポタミアキプロスなどをふたたび帝国領とした。レオン6世は、『ローマ法大全』のギリシア語による改訂版ともいえる法律全集『バシリカ』60巻を刊行、中世ビザンティン帝国の法体系を整備した。文化的には、コンスタンティノス7世を中心に古典ギリシア以来のあらゆる領域に及ぶ文化遺産の収集、整理、研究が行われ、一大文芸復興運動(マケドニアルネサンス)が起こった。宗教界では、第8回公会議(869)で、俗人の学者フォティオスが皇帝により総主教に任命されたことによりローマ教皇との間に起きた「フォティオス論争」に決着がつき、フォティオス総主教の解任をもってローマ教皇との和解が成立した。ギリシア正教は、国内ではアトス修道院群の繁栄、国外ではキエフウラジーミル王の受洗と国教化により大いに栄えたが、カトリック教会とは、ローマ教皇の首位権南イタリア教区の管轄権、教義・典礼および慣習の相違により、東西教会の大分裂を起こした(1056)。両教会は以後今日まで分裂状態にある。バシレイオス2世の死後は、プロノイア制の浸透、テマ制の崩壊とともにその中央集権制度が崩れ、国内に混乱が起きるに至った。[和田 廣]

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世界大百科事典内のマケドニア朝の言及

【ゾエ】より

…同年コンスタンティノス9世と3度目の結婚をし,夫が即位した後は以前の奔放な生活に終止符を打った。道徳的退廃と文化の爛熟,宮廷革命と後継者争い,国費の乱費と国政の弛緩に象徴されるマケドニア朝(867‐1056)時代の代表的人物である。【和田 広】。…

【バシレイオス[1世]】より

…ミハエル3世の庇護の下に馬丁から副帝に出世。後に同帝を暗殺し即位し,マケドニア朝を興す。第8回公会議を首都コンスタンティノープルで開催(869),ローマ教皇とのフォティオス論争に終止符をうつ。…

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