フランス革命期の政治家。重農主義の経済学者ミラボー侯Marquis de Mirabeauを父として3月9日に生まれる。1767年18歳で軍籍に入ったが、3年後には除隊し、乱行と浪費の波瀾(はらん)の青年期を送り、1772年貴族の出のエミリと結婚した。父は幾たびも封印状によってミラボーを拘囚。ジュラ地方の要塞(ようさい)監獄にいたとき、司令官夫人ソフィとオランダに逃走し、1777年から3年間バンセンヌに投獄され、そこで『ソフィへの書簡』を書き、知的形成を行った。エクス高等法院廷におけるエミリの離婚訴訟に対する弁論の大演説は国外にも知られた。1786年からベルリンを訪問して大著『プロイセン王国論』(1788)を発表、文筆活動に携わった。1789年エクス、マルセイユから三部会の第三身分議員に選出され、政治生活に入り、魁偉(かいい)な容貌(ようぼう)とその雄弁によって、幾たびか議会を制圧し、パリ市民の人気を博した。愛国税、教会財産国有化法案を支持したが、君主主義者として1790年の憲法論争では国王の拒否権、宣戦講和権を主張。君主制を守ろうとし、友人を介してルイ16世に革命の凍結をねらう覚書を送り、年金を受けた。さらに同年7月マリ・アントアネットとの秘密会見が明らかとなり、議会への裏切りが糾弾された。しかしその人気は回復し、1791年3月には議長となったが、同年4月2日、腎石仙痛(じんせきせんつう)で急死した。遺体はパンテオンに葬られたが、1792年の民衆蜂起(ほうき)、いわゆる「八月十日事件」のとき、宮廷に送った彼の書類が発見されてパンテオンから除かれた。
[井上幸治]
『井上幸治著『ミラボーとフランス革命』(1949・木水社)』
フランスの経済学者。革命期の政治家ミラボー伯の父。初め軍職にあったが、退役後経済学の研究に専心するようになり、カンティヨンの『商業一般の性質に関する研究』Essai sur la nature du commerce en général(1755)の手稿を入手して、これを簡略にしたもの(あるいは盗作)を自己の著作として発表しようとしたが、手稿の返却を求められたため、予定を変更して『人間の友あるいは人口論』L'Ami des hommes, ou Traité de la population(1756)を発表した(実際の出版は1757年)。彼はこの書で、フランスの富の増大のためには、コルベール主義のもとで減少した農村人口を回復し増大することが先決であるとした。「人口」論という書名をもつ最初の著作とされる。ケネーの『経済表』Tableau économique(1758)の前年の著作であり、好評を博し、以後次々と続編を追加して大著となる。『経済表』の出現後はケネーの理論に共鳴し、人口主義者の立場は放棄せずに農業資本主義を目ざす重農主義のよき普及者となり、『人間の友』の続編(1760)やケネーとの共著とされる『農業哲学』Philosophie rurale(1763)で難解な『経済表』の解説にあたった。『租税論』Théorie de l'impôt(1760)では重農主義の土地単一税論を展開した。
[津田内匠]
フランスの政治家。パリ南方オルレアン地方のロアレで生まれる。父は著名な重農主義の経済学者。はじめは軍人となるが,軍隊生活に飽きて1770年に除隊し,その後は放蕩生活におぼれて破産,愛人とオランダに逃亡して著述業に従事した。77年に捕らえられてフランスに送還され,42ヵ月間バンセンヌ牢獄に監禁された。釈放後,再び著述活動を再開する一方,イギリスなどに旅行し,86年には財務長官カロンヌにより秘密交渉のためプロシア政府に派遣された。その間に自由主義貴族として人気を博し,89年エクサン・プロバンスの第三身分より全国三部会議員に選出され,〈獅子の咆哮(ほうこう)〉と呼ばれたその雄弁により,憲法制定国民議会で大きな影響力を行使した。当初,国王の圧力から議会を守ったり,また議会内では,教会財産の国有化などを提唱したが,憲法問題では国王の絶対的拒否権を要求し,革命の急進化に反対する立憲君主主義者の立場をとった。さらに90年末から宮廷と内通し,国王から手当の支給を受け,自分の借金返済に当てたりした。放蕩と過労のため急逝し,遺体はいったんは革命の功労者としてパンテオンに葬られたが,国王との内通発覚後,国民公会により除去された。
執筆者:小井 高志
フランスの重農主義派の経済学者,啓蒙思想家。革命政治家ミラボーの父にあたる。1757年《人間の友,あるいは人口論》を著し,この書の成功のために彼は〈人間の友〉と呼ばれた。その後同じ重農主義者ケネーの崇拝者となり,その思想の普及に努めた。60年《租税理論》を公刊し,統制経済体制と徴税請負人を厳しく批判したため,一時バンセンヌ牢に投獄された。また《穀物流通に関する書簡》(1768)では,穀物流通の全面的自由の必要性とあらゆる独占の廃止を説いた。家庭的には妻子との不和に悩まされ,息子を一時幽閉したり,晩年には,妻と約20年間にわたる裁判を争わなければならなかった。
執筆者:小井 高志
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1749~91
フランス革命の指導者。父は重農主義経済学者。放縦な青春を送る。三部会に第三身分から選出され,国民議会の成立に重要な役割を果たすが,やがて国王拒否権などの支持に回り,1790年3月には宮廷の秘密資金を受けるようになる。その雄弁は有名。91年4月急死。
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…18世紀の後半,フランス絶対王政は,特権的独占商人や奢侈品(しやしひん)工業の保護育成を中心とするフランス型重商主義政策(コルベルティスムcolbertisme)や,金融政策を中心とする商業主義(ジョン・ローの体制)によって,経済的にも財政的にも破綻(はたん)に(ひん)し,体制的危機に直面した。その再建策として大農経営の発展を提唱したF.ケネーを創始者とし,その自然法思想や政策的主張や経済学説を祖述し発展させたV.R.ミラボー(ミラボー侯),P.S.デュポン・ド・ヌムール,メルシエ・ド・ラ・リビエール,A.N.ボードー(ボードー師),G.F.ル・トローヌ,A.R.チュルゴなどを代表者とする一団の経済学者に共通する経済思想・政策的主張・理論体系を一括して示す名称。…
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