ローマ教皇(在位1958~1963)。俗名アンジェロ・ジュゼッペ・ロンカリAngelo Giuseppe Roncalliといい、ベネチア総大司教からピウス12世の後を継ぎ、76歳で教皇に選出される。農民出身の素朴な人柄で人望を集めたが、15世紀の教会大分裂時代に出た教皇名をあえて名のったところに、現代教会に対する厳しい認識と覚悟がうかがえる。教会の刷新を使命とし、1960年キリスト教一致推進事務局を設置、エキュメニズムの運動を促進させる。東方正教会との接近をはじめとする精力的な活動を展開し、1962年には第二バチカン公会議の開催に踏み切り、古い体質からの脱却を図った。回勅『マーテル・エト・マジストラ』は、仕儀、公平、人類愛、信仰の自由を尊重する団体を称賛した。1963年に発表した彼の回勅『パーチェム・イン・テリス(地上の平和)』は全世界から等しく高い評価を受けた。
[磯見辰典 2017年12月12日]
『J・ハヤール他著、上智大学中世思想研究所編訳・監修『キリスト教史 第11巻』新装版(1991・講談社/改訂版・平凡社ライブラリー)』▽『P・G・マックスウェル・スチュアート著、高橋正男監修、月森左知・菅沼裕乃訳『ローマ教皇歴代誌』(1999・創元社)』
中世の人文主義者。イングランドのソールズベリーに生まれ、フランスで勉学。カンタベリー大司教テオバルドゥスTheobaldus(在位1138~1161)、トマス・ア・ベケット(在位1162~1170)を補佐し、1176年シャルトルの司教となる。著作『メタロギコン』Metalogicon(1159)で古典の研究を勧め、言語の学習と人間性の高揚との関連を力説して人文主義の理念を説いた。『ポリクラティクス』Policraticus(1159)では偽善と軽佻浮薄(けいちょうふはく)な風潮を批判して国家論を展開するが、高い倫理的時代意識がうかがわれる。多くの書簡と『教皇史』Historia pontificalis(1164ころ)は、史料として重要である。
[柏木英彦 2015年2月17日]
『柏木英彦著『中世の春』(1976・創文社)』
「教会大分裂」の三教皇鼎立(ていりつ)(ローマ、アビニョン、ピサ)時代のピサ選立教皇(在位1410~1415)。バルダサーレ・コッサBaldassare Cossaが俗名。ドイツのジギスムント王が招集したコンスタンツ公会議(1414~1418)に彼は同意したが、その野心と所業を非難する者が多く、この会議中逃亡した。公会議はヨハネス23世を裁判にかけ、1415年有罪として廃位が決定した。1418年までドイツに抑留、赦免された翌1419年死去した。
[磯見辰典 2017年12月12日]
『H・テュヒレ他著、上智大学中世思想研究所編訳『キリスト教史 第4巻』新装版(1991・講談社/改訂版・平凡社ライブラリー)』▽『鈴木宣明著『ローマ教皇史』(教育社歴史新書)』
ビザンティン皇帝(在位969~976)。アルメニア出身の軍人貴族で、皇帝ニケフォロス2世の妻テオファノTheophano(生没年不詳)と通じ、同帝を暗殺して即位。旧ブルガリア王国領を占拠したキエフ大公国の王スビャトスラフSvyatoslav Igorevich(?―972)を破り(971)、ドナウ川南岸の地をふたたび帝国領とした。シリア、メソポタミア地方にも遠征し、アンティオキア、ダマスカスなどの東地中海沿岸の重要都市を奪回した(972~975)。また、前代からの難問であった神聖ローマ皇帝オットー2世に対する婚姻政策は、姪(めい)のテオファーノ(955ころ―991)を降嫁させることによって解決し(972)、西欧世界との対決を避けた。東方遠征において勝利を収めたのち、チフスにかかり急逝した。
[和田 廣]
ビザンティン皇帝(在位1222~54)。第4回十字軍のためニカイアに亡命した皇帝テオドロス1世の娘イレーネの夫。義父の死後即位。有能な軍人で、ポイマネノンの戦い(1225)でラテン王国に勝ち、第4回十字軍による首都陥落後のエピルスの亡命政権と、テッサロニキ公国には、宗主権を認めさせた。さらにレスボス、キオス、ロードスの諸島およびアドリアノープルを奪回するなどニカイア政権の領土を倍増した。内政的にもプロノイア制(土地制度)の復活、外国人傭兵(ようへい)に頼らぬ自国軍兵士による国防力の増強、官僚制度の樹立など、いわば「小ビザンティン帝国」をつくりあげ、後の帝国復興の基礎をつくった。てんかんにより病没。のちギリシア正教会により「憐み深き人」として聖人に叙せられた(11月4日・聖人暦による祝日)。
[和田 廣]
ローマ教皇(在位955~963)。18歳で教皇座についた。ドイツ国王オットー1世(在位936~973)に教会統治に関して援助を求めたことにより、962年彼を神聖ローマ皇帝として戴冠(たいかん)することになった。しかし、翌年反対派の扇動にのった皇帝の手で裁判に付されてヨハネスは退位させられ、かわってレオ8世(在位963~965)が選出された。機会を得てヨハネスはふたたび教皇座につき、レオを破門したが、まもなく死去した。
[磯見辰典]
『鈴木宣明著『ローマ教皇史』(教育社歴史新書)』▽『H・テュヒレ他著、上智大学中世思想研究所編訳『キリスト教史3』(1981・講談社)』
ビザンティン皇帝(在位1341~76、1379~91)。父アンドロニコス3世の死後9歳で即位。母アンナの摂政(せっしょう)に反対する元宰相カンタクゼノス(ヨハネス6世)の反乱と帝位簒奪(さんだつ)(1341~54)により、政治の実権を握ったのは22歳のときである。内乱により弱体化した帝国の周辺では、アドリアノープル(1362)、マケドニア(1371)がトルコ領となり、セルビア王国がトルコに屈したとき(1370)、ビザンティン帝国も進貢義務を負うトルコの衛星国になり下がった。皇帝は、この重圧を逃れるため教会統一を条件に西欧の軍事援助を求めたが、不成功に終わった。そしてトルコ軍の包囲網が狭まり、政情不安が増大し、帝位をマヌエル2世に譲った。
[和田 廣]
中世末期のローマ教皇(在位1316~34)。フランスのカオールに生まれる。パリとオルレアンで神学、法学を修め、カオールとトゥールーズで法学を講じた。ナポリ王シャルル2世の宰相を歴任したのち、第3代アビニョン教皇として登位。即位後ただちにフランシスコ会厳格派を断罪し、清貧に関する激しい論争を展開した。1314年の皇帝二重選挙を契機としてルードウィヒ4世と争って破門を宣告し、皇帝陣営にくみしたマルシリオ・ダ・パドバ、ウィリアム・オッカムと論争した。アビニョン教皇庁の組織化を進め、財政再建に努めた。法学者教皇として『クレメンス5世教会法令集(第7書(リベル・セプティムス))』を公布し、さらに自らの教令を『追加教皇令書』として収録した。
[梅津尚志]
ビザンティン皇帝(在位1118~43)。コムネノス朝のもっとも有能な皇帝。アレクシオス1世の長男で父の死後即位。対外的にはペチュネグ人をマケドニアとトラキアで大破し(1122)、同年セルビア王国に宗主権を認めさせた。東部ではメリテネのダニシュメンド太守国(1135)、キリキアのアルメニア分離国家(1137)、アンティオキアのノルマン支配(1137)を制圧し、国威を高めた。バルカン半島ではマジャール人の内乱を平定し(1126~28)、ここにも平和をもたらした。さらにシチリアのロジェール2世に対し、ピサ市とコンラート3世(神聖ローマ皇帝)による反ノルマン同盟を結成するが、狩猟中の事故により死去。
[和田 廣]
12世紀ヨーロッパを代表するイギリスの文筆家,人文主義者。英名ジョンJohn。ソールズベリーSalisburyの近くで生まれ,フランスに渡ってパリ,シャルトルで弁証論,文法,修辞学,神学を学ぶ。アベラール,ギヨーム・ド・コンシュ,ギルベルトゥス・ポレタヌスに師事したほか,クレルボーのベルナールとも親交があり,T.ベケットに仕え,そのカンタベリー大聖堂での殺害を目撃するなど,この時代の学問・文芸活動および社会的激動のただ中に身を置き,〈12世紀ルネサンス〉の立役者の一人となる。晩年シャルトルの司教に任ぜられ,同地で没する。多数の書翰,年代記,伝記的著作のほか,人文主義的な学問の理念を擁護する論理学的著作《メタロギコン》,および君主論,暴君殺害を正当とする理論などをふくむ《ポリクラティクス》などがあるが,随所に普遍論争をふくむ当時のさまざまの哲学や神学説の紹介,人物描写が名文でつづられており,〈12世紀のエラスムスあるいはジョンソン博士〉〈英国の学問教養の中心人物〉と呼ばれるのにふさわしい。
執筆者:稲垣 良典
中世後期のボヘミア(チェコ)の作家。北ボヘミアの都市ザーツSaaz(現,ジャテツ)の文書官,ラテン語学校校長を務めたので,ザーツのヨハネスとも呼ばれる。ドイツ語の散文で書かれた短編《ベーメン(ボヘミア)の農夫》(1400ころ)の作者として知られるが,これは論争文学の系譜に連なる作品で,愛妻を産褥(さんじよく)で失った農夫(ただし紙の畑を耕す農夫すなわち文筆の人,作者自身を暗示する)と死神との間にレトリックを駆使した論争が展開する。現世否定の中世思想を代弁する死神に対して,農夫は生に対する人間の権利を主張して譲らず,結局神の裁決を仰ぐが,神は農夫には善戦を嘉(よみ)して名誉を,死神には勝利を与え,生命は死神に,肉体は土に,魂は神に帰すべきことを説く。中世的伝統に深く根を下ろしながら,イタリア・ルネサンスの影響の見られるドイツ初期人文主義の記念碑的作品。また言語史のうえでは,新高ドイツ語の特徴を示す先駆的作品として注目される。
執筆者:橋本 郁雄
ビザンティン皇帝ユスティニアヌス1世治下のオリエンス道長官(在任530-541)。ギリシア名ヨアンネスIōannēs。生没年不詳。アナトリア中部のカッパドキア出身。辣腕をふるい重税を取り立て,皇帝のローマ帝国復興の資金を集めた。皇帝の信頼は厚かったが,市民の不満の的であった(532年のニカの乱など)。皇妃テオドラの陰謀により失脚,司祭の身分に落とされエジプトに流刑。皇妃の死(548)後帰京を許されたが,終生聖職者で終わる。その生涯は歴史家プロコピウスの《戦史》に詳しい。
執筆者:和田 広
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…キリスト教の教義を初めて体系的にまとめた神学者。ラテン名はヨハネスJohannes。東方正教会では最後の教父とされる。…
…この書のアラビア語原著は散逸しており,部分的な引用が残されているばかりである。ただし12世紀にトレドの翻訳家ヨハネスが,ドミニクス・グンディッサリヌスDominicus Gundissalinusの助力をえて《生命の泉》という題でラテン語訳を行っている。世界は神の意志の産物であるとする彼の教説は,ラテン世界で強い共感を呼び,アルベルトゥス・マグヌス,トマス・アクイナス等に影響を与えている。…
…ボヘミア西部のネポムクの生れ。ネポムクのヨハネスともよばれる。チェコ語ではヤン・ネポムツキーJan Nepomucký。…
…アルナルドゥス・デ・ウィラノウァは,14世紀のはじめにこの水を記述し,その治癒的な力を賞賛した。彼のほかに,後のパラケルススの医化学に道をひらく人文主義的な錬金術的医学思想は,B.ウァレンティヌス,ルペスキッサのヨハネスJohannesたちによって,14~15世紀に用意された。
[近代ヨーロッパ]
徐々に蓄積された自然哲学思想の炎が,12~13世紀の〈ルネサンス〉ではかなり燃え上がったが,爆発的に燃焼したのは,何といっても真のルネサンス期といえる15~16世紀で,まずはイタリアに,錬金術,占星術,自然魔術,さらに天文学,力学,医学,文学などへの知的欲求が盛んにおこった。…
…〈リヨンの貧者〉から分離し,それと区別されるイタリアのワルド派。1205年ころロンコーのヨハネスに指導され,都市の職人や小商人層に広がり,〈初期教会の様式で生活する〉宗教運動の強い影響を受ける。教会の位階制(ヒエラルヒー)に敵意をもち,俗人にも聖職権を認め,集団生活と個的貧困を実践した。…
…トロッパウのマルティンMartin von Troppau,マイイーのジャンJean de Maillyなど13世紀の年代記作者によって言及され流布した。それらによれば,彼女はイングランドに生まれ,ヨハネス・アングリクスJohannes Anglicusなる男性名でケルンに学び,学者として盛名をはせたのち,855年ころ教皇位に就任,ヨハネス8世を名のったという。一説に行列の途上分娩して女性であることが露見したと伝えられる。…
…パリ大学で学び,1230年ころ《論理学綱要》を書いた。他方,キリスト教聖職者としての道を登りつめ,76年教皇となり,ヨハネス21世Johannes XXIを名のったが,在位8ヵ月にして,書斎の天井が崩壊しその下敷きとなって死去した。彼の《論理学綱要》はアリストテレスの論理学書を上回る,きわめて優れた書物であり,17世紀までヨーロッパの大学で教科書として使用された。…
…レオ13世(1878‐1903)はカトリック教会と近代世界との親しい関係を開き,ピウス10世(1903‐14)は教会内の信仰再生に努めたが,ベネディクトゥス15世BenedictusXV(1914‐22)とピウス11世(1922‐39)は戦争と革命による世界不安に直面し,ピウス12世(1939‐58)は第2次世界大戦の全人類的受難を背負わなければならなかった。〈教会は諸民族に出会わなければならない〉と述べたヨハネス23世JohannesXXIII(1958‐63)の牧者的精神はパウルス6世(1963‐78),ヨハネス・パウルス1世Johannes PaulusI(1978),さらにヨハネス・パウルス2世(1978‐ )に受け継がれている。教皇権教皇選挙キリスト教【鈴木 宣明】。…
…しかし,デリンガーら一部の反対派は教皇への従順を拒み,71年に古カトリック主義を唱えて離教した。(2)第2バチカン公会議(1962‐65) 1959年1月にヨハネス23世がふと心に浮かんだ思いつきを公言した談話に端を発し,61年12月に教会の刷新(現代化)とキリスト者一致の再建を主要目的として召集した公会議。62年10月11日の開会式には議員資格者3043名中2540名が,別にプロテスタント諸教派のオブザーバー約60名が参加。…
…シャルトルのベルナールはプラトンの《ティマイオス》に従って自然有機体説をとなえ,ベルナルドゥス・シルウェストリスはこれに生命を与える〈宇宙霊魂〉を神的なものに高めて汎神論的傾向をおびるに至った。このプラトン主義のゆえにイデアの実在が説かれ,ギルベルトゥス・ポレタヌスとソールズベリーのヨハネスはこれを主張したが,同時にアリストテレス主義に従って個体概念の成立にも関心を示した。ヨハネスはこの学派の中心人物で,古典にもとづく人文主義を掲げ,修辞学を盛んにしたほか,叙任権闘争においては自然法を実定法に優先させる考えを示して,これに反する君主を抹殺すべきことを説いた。…
※「ヨハネス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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