ラインラント(その他表記)Rheinland

デジタル大辞泉 「ラインラント」の意味・読み・例文・類語

ラインラント(Rheinland)

ドイツ西部のライン川中流の地方。ノルトライン‐ウェストファーレン州ラインラント‐プファルツ州に属す。もとプロイセン領ライン州。古来、商工業が発達し、近代にルール地方を中心に工業も発達。

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精選版 日本国語大辞典 「ラインラント」の意味・読み・例文・類語

ラインラント

  1. ( Rheinland )
  2. [ 一 ] ライン川両岸一帯の称。
  3. [ 二 ] 旧プロイセン領ライン州。ドイツ中西部のライン川沿岸地方で、工業地帯が発達。フランスとの係争地であったが、一九四六年ノルトライン‐ウエストファーレン州およびラインラント‐ファルツ州に分割編入された。

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改訂新版 世界大百科事典 「ラインラント」の意味・わかりやすい解説

ラインラント
Rheinland

ライン川に沿うドイツの地域名。ラインランデRheinlandeがスイスからオランダ国境までのライン川両岸のドイツ領の総称であるのに対し,ラインラントはそれからライン川上流地域(オーバーラインOberrhein)を除く中流地域(ミッテルラインMittelrhein)と下流地域(ニーダーラインNiederrhein)の歴史的呼称であり,狭義には1824年にプロイセンにより創設され45年まで存続したライン州Rheinprovinzをさす。歴史的には,ライン川下流地域はケルン湾入低地からオランダ国境までの地域をさし,中流地域はコブレンツとナーエ川の間の多くの城の残っている地域をさすが,この区別は中世末までのニーダーラントとオーバーラントと一致し,ローマの州分割の境界に起源をもっている。16世紀以降ラインラント人という場合ライン川下流の低地の住民をさすようになり,中流地域の住民は除外されたが,18世紀末のフランス領時代には中流地域がライン・モーゼル県と名づけられ,下流地域はルール県とされた。1814年にプロイセン領となって後,両地域がラインラントと呼ばれるようになり,第2次大戦後ラインラントという名称がラインラント・ファルツ州の構成部分としてライン川中流地域に適用され,下流地域は旧ウェストファーレン州と統一されてノルトライン・ウェストファーレン州となっている。

ライン川の中流は古生層からなるライン片岩山地を貫く峡谷を形成して北西方向に流れる。ライン片岩山地は,南から北へ向けて,左岸ではライン川の支流で南西から流れてくるモーゼル川により区分されたフンスリュックとアイフェル,および右岸では北東から流れてくるラーン川により区分されるタウヌスとウェスターワルトの4地域に分かれる。片岩山地の高所は森林におおわれ,低所ではジャガイモ,ライムギ,エンバク等が栽培されている。ライン片岩山地は左岸ではアイフェルから,右岸ではロートハール山地からジーガーラント,ザウアーラントの低い山地を経てライン川下流の低地に連なる。コブレンツより下流のノイウィート盆地では軽石ブロックの製造が盛んである。ライン川下流の低地はケルン湾入低地と砕石段丘および沃野からなり,経済的にはライン・ウェストファーレン工業地域,とくにルール地方の一部をなす。ライン川右岸では支流ジーク川,ブッパー川,ルールRuhr川,リッペ川等が東から流れてき,左岸ではライン川の支流エルフト川,マース川の支流ルールRur川,ニールス川が南から北に向かって流れている。

ローマ人はガリアとゲルマニアを征服してライン川以西の地域,およびライン川中流とドナウ川上流を結んで長城を築きドナウ川以南の地域をローマ帝国領とした。その後2世紀後半からゲルマン人が侵入し,ライン川南部はアラマン族の所領となり,北部はフランク族に帰したが,6世紀以降フランク王国が統一して支配するようになり,カロリング朝の背骨となった。843年のベルダン条約によりフランク王国が三分された際,ラインラントの大部分はロタールの王国に編入され,870年のメルセン条約により東フランク王国と西フランク王国に分割された後,879-880年のベルダン・リブモント条約によってラインラント全領域が東フランク帝国(ドイツ)に帰属し,ドイツ的要素を強めた。

 中世に入って多くの小領邦が成立した。ユーリヒ,ベルク,クレーフェ,マルク等の世俗領とともにケルン大司教領をはじめとする宗教所領も成立し,その後,領土の変遷をたどり,18世紀末にナポレオンによりフランスに併合されたライン川左岸のみで97の小領邦が存在していた。他方13世紀ころから都市の活動が活発となり帝国直属都市ケルン,アーヘンをはじめ,各領邦の認可した領邦都市(たとえばベルクのデュッセルドルフなど)が興隆し,西ヨーロッパ市場との取引や各種手工業の中心となった。

 1629年にフランスの枢機卿リシュリューが覚書でフランスの独立と偉大さのためにドイツの紛争に干渉する必要を論じて以来,ラインラントの獲得がフランスの恒常的目的となった。三十年戦争(1618-48)終結のウェストファリア条約でフランスはエルザスアルザス)を獲得し,ルイ14世はシュトラスブルクストラスブール)を併合し,1735-66年にはさらにロートリンゲン公国を獲得した。ラインラント獲得の目的はナポレオンが1797年にオーストリアを破ってカンポ・フォルミオ条約を結んだ結果一応達成されたが,ナポレオンが没落するとウィーン会議の決定(1815)によりプロイセン領となった。プロイセンは旧プロイセン領のクレーフェ,ゲルデルン,メールスとともに100に及ぶ以前の帝国直属領を含むこの地域にクレーフェ・ベルク州とニーダーライン州を創設したが,1824年にこの2州をライン州に統一した。その後ライン州には34年にコーブルクのリヒテンベルク公領と86年にヘッセン・ホムブルクのアムト・マイゼンハイムが帰属した。ライン州は1834年のドイツ関税同盟成立のころより,とくにルール川北部の石炭採掘を基礎に鉄鋼業を中心として近代工業の発展を開始し,71年のドイツ帝国の創立時にはデュースブルク,エッセン(クルップの本拠)等の工業都市の連なるルール地方を中心にドイツの経済の心臓部,世界有数の工業地帯へと成長を遂げた。

 第1次大戦後ベルサイユ条約(1919)により,オイペン,マルメディ,モレネがベルギーに割譲され,ライン川以東の幅50kmの地帯が非武装化され,ライン川左岸の連合軍による15年間の保障占領が行われることになり,イギリス,フランス,アメリカ,ベルギーにより構成されたラインラント委員会が行政に当たった。ドイツ政府はドイツの利害代表として1人の政府特別任命委員を任命した。1923年にフランスは賠償問題を理由にベルギーとともにルール地方を占領し,ドイツの分離主義者を扇動してライン共和国を成立させ緩衝地帯にしようとしたが失敗し,24年のドーズ案の成立により撤退した。29年のヤング案の成立により連合軍がライン川左岸の占領地から撤兵した後,ナチス政権下における35年1月13日の住民投票により再びドイツに復帰し,36年3月7日にナチス政権は再武装を宣言して進駐した。

 第2次大戦後45年にライン州はイギリス,アメリカ,フランスの占領地域に分割され,ザール地域(ザールラント)は拡大されて独立し,フランスの関税,経済領域に併合された。ザール地域が西ドイツに復帰後同地域を除く旧ライン州はノルトライン・ウェストファーレン州とラインラント・ファルツ州に分割され今日に至っている。

ラインラントは豊富な地下資源に恵まれ,古くより工業が盛んであったが,1840年代以降とくにルール地方,ザール地方で石炭業を基礎に鉄鋼業や機械工業等が発展してドイツ有数の工業地帯となった。しかし,1960年代以降石炭から石油へのエネルギー源の移行に伴う経済の変化の結果,1960年代には南ドイツの工業が,70年代には北ドイツ沿岸地方の工業が勃興し,西ドイツ内部におけるラインラントの工業の比重が低下した。またラインラント内部においても,工業の比重が伝統的な工業地帯であるルール地方から新興の石油化学,アルミ生産,自動車製造,電機産業等を中心とするライン川沿岸地方に(とくにボンから上流へ)移行しつつある。繊維工業では毛織物業を中心とするアーヘンとその周辺,ビロードと絹織物のクレーフェルト,綿と毛織物のメンヘングラートバハとライト,リボンやレース等を製造するブッパータール等が著名である。古い伝統をもつ小鉄工業では,ゾーリンゲンにおけるナイフや剣等の製造,レムシャイトの工具製造,フェルベルトの鍵の製造,アルテナやイッザーローン等の針金製造等がよく知られている。ライン川中流やモーゼル川の谷ではブドウ栽培とブドウ酒製造が盛んである。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ラインラント」の意味・わかりやすい解説

ラインラント
らいんらんと
Rheinland

広義ではドイツのライン川両岸地域、狭義では旧プロイセン領ライン州をさす。紀元前1世紀からローマの支配下に入り、紀元後3世紀以降はゲルマン系のフランク人が移住、西ローマ帝国滅亡後、フランク王国の一部となった。9世紀にフランク王国が東西に分裂すると、東フランクに属し、ドイツ的要素を強めた。14世紀以降、多数の諸侯国に分かれ、そのなかにはケルン、トリール、マインツの大司教など有力な宗教諸侯がいた。17世紀初め、プロイセンがここに領土を得、またフランスもライン左岸への領土的野心を示し、フランス革命後、ナポレオンのもとでライン左岸はフランス領になった。しかし1815年ウィーン会議はこの地域をプロイセンに与え、24年プロイセン領ライン州成立。ここは早くから商工業の発達が目覚ましかったが、19世紀に産業革命とともに、ルール地方を中心にドイツ経済の心臓部となった。第一次世界大戦後、この地域の一部は連合軍によって占領され、また非武装地域に指定されるなど、国際対立の争点となった。1936年ヒトラーはここに軍隊を入れ、ベルサイユ体制を崩壊させた。第二次世界大戦後はフランス、イギリス、アメリカ3国によって分割統治され、現在はドイツのノルトライン・ウェストファーレン州およびラインラント・プファルツ州のそれぞれ一部になっている。

[木谷 勤]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ラインラント」の意味・わかりやすい解説

ラインラント
Rheinland

ライン川に沿うドイツ西部の地名。歴史上,幾度となくドイツ,フランスの紛争の焦点となった。 10世紀頃には大小多数の諸侯が割拠し,神聖ローマ帝国成立後も,これら諸侯の分割支配下にあった。三十年戦争を終結させたウェストファリアの講和の結果,南部のアルザスはフランス領となった。ヨーロッパを制覇したナポレオン1世は,ライン川左岸をフランス領とし,西部ドイツの諸侯国をまとめてライン同盟をつくってその保護下においたが,ウィーン会議の結果,ドイツの工業先進地帯である北部ラインラントはプロシア領となり,普仏戦争の結果すべてのラインラントがドイツ帝国領となった。第1次世界大戦後,ベルサイユ条約は,エルザス=ロートリンゲン (アルザス=ロレーヌ) のフランスへの帰属,ライン川左岸の保障占領,ライン川右岸 50km以内の非武装化を定めた (→ラインラント帰属問題 ) 。 1925年ロカルノ条約によって再度永久武装禁止が保障されたが,33年政権を握ったナチスは,36年フランスとソ連の相互援助条約を機に,ドイツの安全保障という口実のもとにドイツ軍をラインラントに進駐させた。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ラインラント」の解説

ラインラント
Rheinland

プロイセン領ライン州をさすが,現在では広くライン川流域の工業地帯を含めていう。16世紀以来フランスはライン左岸の地をうかがい,ナポレオンがこの地を併合した。ウィーン会議でプロイセン領ライン州が組織され,以後ドイツの中心的工業地帯として発展した。ヴェルサイユ条約では,ライン右岸は非武装地帯,左岸は連合軍の占領下に置かれた。1923年初頭フランスはルール地方を占領しラインラントを独立させようとしたが失敗した。ロカルノ条約はラインラントの非武装を確認し,30年連合軍は撤兵した。しかしナチス政権は36年ラインラント再武装,ロカルノ条約破棄を宣言してここに進駐した。第二次世界大戦後フランスの占領下に置かれたが,ドイツ連邦共和国の成立とともにこれに含まれている。

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百科事典マイペディア 「ラインラント」の意味・わかりやすい解説

ラインラント

ドイツ西部,ライン川中・下流域の歴史的呼称,また,狭義にはプロイセンによって創設され,1924年―1945年まで存続したライン州をさす。ケルンを中心に,北部のルールを中心とする工業地帯,南部のブドウ栽培地域を含む。1814年プロイセン領となり,1871年ドイツ統一によりその重要性を増した。第1次大戦後非武装地帯となったが,1936年ナチ政権による進駐が行われた。第2次大戦後の1945年ライン州は英・米・仏によって分割・占領。その後ザールラントの一部となった地域以外は西ドイツ復帰後,ノルトライン・ウェストファーレン州とラインラント・ファルツ州に分割された。
→関連項目コブレンツロカルノ条約

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旺文社世界史事典 三訂版 「ラインラント」の解説

ラインラント
Rheinland

ドイツ連邦共和国のライン川西岸の地帯
フランス・ベルギーと接するザール・ルール両地方を含み,主要工業地域であるとともに,ドイツ・フランス間の歴史的係争地。ウィーン会議後プロイセン領,第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約で非武装地帯となり,1925年のロカルノ条約で再確認された。ところが,再軍備したナチス−ドイツは1936年ラインラントへ進駐し,第二次世界大戦後は一時フランスの占領下に置かれた。

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デジタル大辞泉プラス 「ラインラント」の解説

ラインラント

《Rheinland》ドイツ海軍の戦艦。ナッサウ級。1908年進水、1910年就役の弩級戦艦。1916年のユトランド沖海戦に参加。1919年除籍、1921年解体。

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