フランスの物理学者、数学者。イタリアのトリノの生まれ。どこで数学を学び、だれが紹介したのか不詳であるが、18歳のときトリノ陸軍砲兵学校の数学教員となっている。そして数学談話会をつくり、談話をまとめて公刊した『談話会誌』はのちに『トリノ論文集』として、トリノ科学アカデミーの紀要となった。1766年、プロイセンのフリードリヒ2世により、オイラーの後任としてベルリン科学アカデミーに招かれ、20年間在職し、多くの論文を書き、ラプラスの『天体力学』と並び称される古典的名著『解析力学』(1788)も、この期間に完成した。17世紀に解析幾何学・微積分法の基礎が築かれて、自然現象を数量的・記号的に扱い近代自然科学への第一歩が踏み出されたのであるが、『解析力学』は「仮想仕事の原理」を出発点とし、「変分法」を応用して、剛体と流体の力学を論じ、また、運動についても、「一般化座標」を導入し、統一的な運動方程式を樹立し、これを出発点としているなど、力学における一つの画期をなす著作となった。
1787年、フリードリヒ2世の死後、パリ科学アカデミーに招かれた。パリではフランス革命勃発(ぼっぱつ)後も革命政府の新度量衡制度委員会の委員になり、1795年に高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリュール)の教授に、1797年に理工科大学校(エコール・ポリテクニク)の教授になった。理工科大学校での講義「解析関数論」は、この学校の「紀要」(1797年号)に出ている。「無限小」すなわち「極限」の概念を排除した解析学を樹立したものであるが、論理的基礎は、あいまいであった。
[小堀 憲]
18世紀の後半に活躍した大数学者。数学のあらゆる分野で基礎的な業績を残し,19世紀の数学に大きな影響を与えた。イタリアのトリノで生まれ,19歳でトリノの王立砲工学校教授となり,教育に携わるかたわらトリノ市の同僚,後輩を中心に,学術雑誌を発行し,若くしてヨーロッパでその存在が認められた。早くからL.オイラーの仕事の等周問題に興味をもち,変分学の分野に解析的な方法を発案した。次いで,パリのアカデミー・デ・シアンスが募っていた天体力学の懸賞論文に刺激されたこともあって,三体問題などについての業績を残した。つづいて,1766年から87年までオイラーの後継者としてベルリン科学アカデミーの数学部門の長として活躍,19世紀の数論,代数学に大きい影響を与える数々の業績を残した。ラグランジュの研究の源泉は先達オイラーに見いだされることが多い。解析学は,I.ニュートン,G.W.ライプニッツを経て,オイラー,ラグランジュによって,その大綱が定められたということができる。1787年パリに移りアカデミー・デ・シアンス会員として没年までパリで活躍した。94年から99年までの間,エコール・ポリテクニクの教授として,G.モンジュとともにフランス数学の次の世代に影響を与えた。ベルリン時代にまとめた《解析力学》(1788)は,一般化座標を導入して力学の基礎方程式を導き,その後の力学の発展の基礎を与えた。また,エコール・ポリテクニクの講義をまとめた《解析関数論》(1797)などの著書がある。政治的には混乱期にあったが,1790年メートル法制定に当たって,その制定委員長として尽力した。
執筆者:溝畑 茂
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…これはフランスにいち早く集権的な統一国家ができたことや,ルイ14世の人柄や,モリエール,ラシーヌら強力な劇作家が輩出したせいでもあろう。座頭・作家・俳優だったモリエールの死後,不調の一座が拠っていたゲネゴー劇場と,ラシーヌ劇の上演,イタリア人劇団の活躍などで隆盛だったブルゴーニュ館(ブルゴーニュ座)が,ルイ14世の勅命によって(前者の劇場に)合併,国王の認可を得てパリにおける唯一のフランス劇団(と劇場)となり,〈コメディ・フランセーズ〉は発足したわけだが,発足当時,座長はラ・グランジュLa Grange(1639‐92),座員は男15名,女11名,計27名だった。〈コメディ・フランセーズ〉は,よかれあしかれ,フランスの古典を中心に,演劇芸術の伝統の擁護と顕揚を何よりのモットーに掲げ,時代とともに色合いを変えながらも,今日まで続いて健在である。…
…Vは位置エネルギー,T+Vは力学的エネルギーと呼ばれる。上式は保存力のときは,位置エネルギーまで含めた力学的エネルギーが物体の運動の際,状態が変わっても変化しないという(力学的)エネルギー保存の法則(エネルギー保存則)である(実質的にはJ.L.ラグランジュによって1811年に与えられた)。
[熱とエネルギー]
力学的エネルギーの保存則は現実には満たされない場合が多い。…
…今は板の裏表だけを考えて置くときの板の向きは考えなかったが,向きも考えに入れて同様の操作を考えると,だいぶ複雑な群ができる。
[群の歴史]
五次以上の方程式の解法を見いだす努力として,J.L.ラグランジュとバンデルモンドAlexis Théophile Vandermonde(1735‐96)が,1770年ころに三次,四次の場合の解法を吟味して,根の整式に根の置換をほどこしたとき,どれだけ異なった値をもつかということなどに着目した。約半世紀後にN.H.アーベルとE.ガロアがその考えを進展させて,アーベルが,まず代数的に解ける多項式(係数から出発して,根が四則算法とべき根をとる演算とで得られるもの)を調べ,一般の五次多項式には代数的には解けないものがあることを示した。…
…18世紀にはフロギストン(燃素)説の誤りを経て,ラボアジエが燃焼での酸素の役割を確定する。呼吸も体内での酸化として位置づけられたが,熱をだす燃焼と同じことが体内でも起こると考えられたので,J.L.ラグランジュは,肺のみで燃焼が起これば肺は高熱になりすぎると論じた。ここからかえって,酸素は全身末梢組織に分配されるはずだとの正しい見通しが生まれた。…
…この事実は,重心積分(6個)を使って運動方程式の階数を18階から12階に逓減したといわれる。さらに角運動量積分とエネルギー積分を使って運動方程式を8階にまで逓減する研究が,18世紀後半から19世紀を通じてオイラー,J.L.ラグランジュ,C.G.J.ヤコビその他によって行われ,最終的には,〈交点の消去〉と〈時間の消去〉の方法で6階の運動方程式に帰着させた。この新運動方程式で一つでも積分が見いだせれば,それはオイラー積分とは独立な新積分となるわけである。…
…そこには数理解析により,世界のすべてのことが機械的に決定されるはずであるという考えへの深い信頼が表明されている。
[19世紀以降の数学]
J.L.ラグランジュはラプラスと同時代の数学者で,《解析力学》(1788)や《解析関数論》(1797)などの著書で知られるが,彼は18世紀末には,数学にはもうこれ以上本質的な進歩はありえないかのように思っていたという。しかし世紀の移るころからまったく新しい数学の傾向が見られるようになった。…
… ニュートンの研究を受け継いで月の運動や三体問題などを解析的方法で論じたのはL.オイラーである。とくにケプラー要素の時間変化によって摂動を表す着想はオイラーに始まり(1753),のちJ.L.ラグランジュが完成した(1782)。これは現在ラグランジュの運動方程式といわれ摂動論の基本式となっている。…
…一般に物理的な体系が時間または空間的に変化する法則は変分原理によって表現されることが多いが,その場合対象となる系の物理量を含む汎関数でその積分が変分汎関数となるものをラグランジュ関数と呼び,一般にLで表す(ここで物理量の汎関数とは,物理量自体時空変数の関数として表されるので関数の関数という意味で用いられる用語である)。以下,質点の力学の場合について具体的に説明しよう。…
※「ラグランジュ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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