ラチオ(英語表記)ratio

翻訳|ratio

改訂新版 世界大百科事典 「ラチオ」の意味・わかりやすい解説

ラチオ[州]
Lazio

イタリア中部の州。面積1万7207km2,人口527万(2004)。州都ローマ。州の東部アペニノ山脈がのび,西・中央部は丘陵に覆われ,ティレニア海沿岸地域はマラリアが発生する沼地であったが,19世紀後半に干拓された。冬,夏の平均気温はそれぞれ10℃,25℃と温暖な気候に恵まれ,四季を通じて降雨量は少ない。ローマ周辺の農業地帯や南イタリアからの人口流入現象がみられるが,州経済の基盤は農業である。主要農産物は小麦,トウモロコシだが,園芸栽培のキャベツ,トマト,ブドウの生産量も多い。

 古代ローマ建国時のラティウムLatium(イタリア語でラチオ)はローマ市を流れるテベレ川から東と南に約20kmの限られた地域を指していた。以後徐々に南に領域を拡張し,帝政時代には現在のカンパニア州に接する地域まで達した。6世紀末,ローマ教会はラチオに領地を所有していたが,統治権はビザンティン帝国が掌握していた。8世紀に入るとビザンティンの力が衰え,ローマを中心とするローマ公領は教皇の影響下に置かれた。756年,小ピピンが旧ビザンティン領を教皇に寄進し,教皇領の基礎がつくられた。9,10世紀はイスラム教徒マジャール人がイタリアへ侵入し,ラチオにも及んだ。11世紀の叙任権闘争によって教皇の権威が高まったが,12世紀の前半にコムーネとなったローマ市では,教皇はまだその支配権を確立しておらず,ラチオ一帯は貴族,小コムーネ,ドイツ人封建領主などが割拠していた。1198年に即位したインノケンティウス3世は,反皇帝運動の中心となり,教皇領の拡大,充実を図った。13世紀の諸都市は,ギベリンゲルフに分かれて激しい戦いに入り,1278年,教皇ニコラウス3世は皇帝ルートウィヒと教皇領を承認するローザンヌ条約を更新し,この時から,教皇は真の世俗的統治者になった。アナーニ事件を経て,1309年,教皇庁アビニョンへ移転され,ラチオにおける教皇の統治権が衰退した。14世紀半ば,コロンナ家やオルシーニ家の権力拡張に不満が高まったローマでは,コラ・ディ・リエンツォが市政改革と教皇のローマ帰還に献身したが失敗した。同じころ教皇庁から派遣されたアルボルノスが諸都市の自治を認めるかわりに,教皇代官を承認させ,教皇領を回復した。77年,教皇庁はローマに戻され,15世紀には傭兵隊を起用して貴族の領地を押収し,教皇はこの地方における完全な統治者の地位を確立した。その後,教皇領は中・北部イタリアへと拡張され,ラチオ独自の歴史要素は広大な教皇領の歴史のなかに吸収されていった。1861年にできた統一国家イタリアのローマ併合に抵抗していた教皇庁も70年,ついに降伏し,イタリア王国の一州ラチオとなった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ラチオ」の意味・わかりやすい解説

ラチオ
ratio

西洋中世哲学における重要概念。「数える」「考える」「判断する」などの意のラテン語動詞 reriに由来する名詞で,哲学的にはギリシア語の nous (精神) ,logos (理) の訳語として用いられたが,原語と同様きわめて多義的で,これを唯一の概念で規定することはほとんど不可能である。しかし既知から未知への推移を伴う認識またはその主体,あるいはそのような認識を支える存在論的,論理的根拠としての意味が考えられる。前者の場合推論,推理力,理性,悟性などと訳され,後者は理由,根拠,条理,本質,規定,原因,規則,学説などと訳される。なお数学概念では割合,比,関係,計算などの意がある。

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