ドイツの数学者。ブレゼレンツに生まれ、1846年ゲッティンゲン大学に進んだ。同大学の目ぼしい数学者としてはガウスがいたが、ベルリン大学は豪華な教授陣を擁していた。そのためベルリン大学へ聴講に行き、とくにディリクレ、ヤコービから大きな影響を受けた。1849年ゲッティンゲンに戻り、1851年に論文「1複素変数の関数の理論の基礎」によって学位を得た。この大学への就職論文は「関数を三角級数に表現することの可能性について」と題するもので、1853年12月に提出された。これは、新しく「リーマン積分」を樹立した論文である。また、就職講演は「幾何学の基礎となっている仮説について」で、多様体とそれの曲率とを定義したものであり、この研究は20世紀への遺産となった。これら二つの論文と講演が公表されたのは彼の死後であるが、この論文と講演によってゲッティンゲン大学の無給講師となり(1854)、1857年には助教授となった。1859年ディリクレが病死(彼はガウスの死後、ベルリン大学から移ってきた)したため、教授に昇格した。1860年パリへ行き、エルミートの知遇を得たが、肺を患い、ゲッティンゲンに帰った。1862年病気が再発、イタリアのマジョレ湖畔で療養したが、1866年7月20日、同地で不帰の客となった。
リーマンは、前記学位論文において、1複素変数の関数の理論を基礎づけた。とくに代数方程式f(z,w)=0で定義されたw(これはzの関数)は、一般には、zの値を一つ定めても、値が一つであるとは限らない。zの変域を複素平面の点の集合とは考えないで、何枚か重なった面の点の集合であると考え、zとwとが1対1の対応をするようにくふうした。これは後世に「リーマン面」といわれるものの原型である。
整数論においてもその独創性を発揮している。素数の分布に関する研究を解析的に解くために、分布の問題を、級数
1+2-s+3-s+……+n-s+……
(sは複素数)で定義された関数の値が0となるsの値の分布の問題へ転換した。しかし、この関数(後世では「ζ関数(ゼータかんすう)」とよんでいる)の零点の分布については、リーマン自身の予想(リーマン予想)があるだけで、現代に至るも解決されていない。
[小堀 憲 2018年12月13日]
デンマークの政治家。19世紀デンマークの国民主義的傾向を前面に打ち出した自由主義者の筆頭をなし、スリースウィ戦争(1848~1850、1864)に至る反ドイツ・反絶対王制の代表的人物。1844年大法院弁護士となり、若き自由主義者の政党「ナショナルリベラル」内の重要な地位にあって、スリースウィ問題、自由憲法要求、スカンジナビア主義を一元的にとらえ、二度の戦争を前にしてそれぞれ無任所相・内務相につき、ドイツとの戦争を回避しなかったデンマークの政治路線に決定的影響を与えた。また1846年「農民の友協会」結成時の発起人の一人となり、「六月憲法」(1849)の起草にも参与し、下院議員(1851~1853)、上院議員(1854~1870)を歴任した。デンマーク王国およびスリースウィ公爵領の共通憲法の可能性はデンマークの敗北(1864)で消滅し、彼の政治生命は失われた。
[村井誠人]
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ドイツの数学者。牧師の子としてリューネブルクのブレーゼレンツに生まれ,ゲッティンゲン大学およびベルリン大学に学んだ。ゲッティンゲン大学において学位を得(1851),1859年教授となった。62年以後は肺疾患のため療養生活をおくり,転地先のイタリアで死去した。短い生涯であったが,鋭い直観力によって数学のいろいろの分野に新機軸をうち出し,画期的な業績をあげた。たとえば,学位論文でリーマンの写像定理と呼ばれる定理を与え,1857年にはいわゆるリーマン面の概念を導入して,幾何学的関数論の基礎を築いた。また,就職講演《幾何学の基礎にある仮説について》では,空間概念を拡張して,今日,リーマン幾何学と呼ばれている新幾何学を開いた。さらに,58年にはいわゆるリーマンのζ関数の性質を研究し,現在も未解決のリーマン予想という問題を残した。
執筆者:中岡 稔
ドイツの音楽学者。近代音楽学の確立のうえで指導的な役割を果たした。1873年《音楽を聴くこととは》により学位を得る。81-90年ハンブルク音楽院,90-95年ウィースバーデン音楽院でピアノおよび音楽理論を教える。95年ライプチヒ大学に移り,1901年教授。とくに音楽理論や音楽史学などの分野において注目すべき論考を発表した。和声論では《音楽構文論》(1877)などの著書で長・短調の統一的原理を追究し,〈機能和声〉という理論を打ち出した。そのほか《9世紀から19世紀における音楽理論の歴史》(1898)は音楽理論の変遷を追った最初の本格的な研究である。音楽史学の分野では,マンハイム楽派を再認識し,いわゆる前古典派の活動に光を投げかけたのをはじめ,ビザンティン記譜法についての研究やアルス・ノバの評価なども注目される。また,《音楽事典》(1882)を編集し,同事典は改訂を経て今日に至るまで継続されている。
執筆者:西原 稔
デンマークの政治家。19世紀の国民自由党の代表的人物で,大法院弁護士となり,雄弁家として大衆の人気を博した。デンマークの民族性の危機と考えられたスリースウィー(シュレスウィヒ)問題を,自由憲法をもった国民国家の達成という目標のもとにとらえ,反絶対王政,スカンジナビア主義,自由憲法要求を一体化した政治闘争を展開した。2度にわたる対ドイツ戦争(1848-50,64)に,いずれも閣僚として関与している。
執筆者:村井 誠人
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…L.オイラーは公式eiθ=cosθ+isinθを導いたり,複素数の対数についてその多価性を発見したりしている。また,オイラーやA.C.クレーローは,流体力学を論ずるのに複素線積分を用いて,今日,コーシー=リーマン方程式と呼ばれる関係式を導いている。けれども,このころは,実関数に関する二つの式を複素関数を用いて一つの式で表すといった便宜的なものにすぎなかった。…
…すなわち彼らはユークリッド幾何学の中に非ユークリッド幾何学の模型をつくり,ユークリッド幾何学が矛盾を含まぬかぎり,非ユークリッド幾何学も矛盾を含まない論理体系であることを示した。なお,B.リーマンは1854年に,直線の長さは有限で,2直線はつねに2点で交わるような幾何学を構成し,クラインはこれを少しく変更して2直線はつねに1点で交わるという幾何学を構成した。この非ユークリッド幾何学を楕円幾何学と呼ぶのに対し,先に述べた非ユークリッド幾何学を双曲幾何学と呼ぶ。…
…また,コーシーの時代には極限の概念は確立していても一様収束の概念がなかったため,いくつかの誤った結果が導かれたが,N.H.アーベルによる一様収束の概念の発見によってそれらの問題点が明確になり,誤りは正された。続いてG.F.B.リーマンは,積分の定義を反省してそれを一般にした論文を発表し(1854),さらにG.カントルは無理数論ならびに集合論を創始した(1872)。 これよりさき,J.B.J.フーリエは熱伝導に関する有名な論文(1812)を書き,すべての関数はいわゆるフーリエ級数で表されることを論じたが,これが解析学に及ぼした影響は大きい。…
…数論はいうまでもなく純粋数学の一分野であるが,ガウスはそれを〈数学の女王〉と呼んだ。 G.F.B.リーマンは19世紀前半より中期にかけてのもっとも重要な数学者である。彼は電磁気学や熱伝導論など理論物理学への寄与もあるが,複素変数の解析関数論,ことに代数関数論の基礎を定め,積分論や三角級数論にも重要な貢献をし,数論上古くからのなぞとされた素数分布の問題を扱うのに,ゼータ関数を複素変数の関数として考えるという新しい方法を創始した。…
…例えば2変数n次既約多項式f(x,y)の零点f(x,y)=0で定義される図形はn次(アフィン)平面代数曲線と呼ばれ,n=1であれば直線,n=2であれば二次曲線と呼ばれ楕円や放物線はその例である。 N.H.アーベル,C.G.J.ヤコビによる楕円関数論の建設を経て,G.F.B.リーマンによる代数関数論の建設によって代数幾何学という新分野が生まれた。リーマンは代数曲線f(x,y)=0を考察する際,複素数の範囲で考えた。…
…(3)対応する三つの角がそれぞれ等しい二つの三角形は合同である。B.リーマンのゲッティンゲン大学就任講演《幾何学の基礎にある仮説について》(1854)は幾何学に大革新をもたらし,それよりいわゆるリーマン幾何学が生まれたが,この幾何学の特別の場合として,リーマンは上述の非ユークリッド幾何学と別種の非ユークリッド幾何学を構成した。この幾何学では,平行線公理に代わって,〈平面上で,直線外の1点を通って,この直線と交わらない直線は存在しない〉が成り立ち,また,三角形の内角の和は2直角より大となる。…
…なお,フレージングの理論は18世紀以来盛んに論じられるようになった。とくにH.リーマンの業績は重要で,すべての楽句にアウフタクトを想定する彼の説は,その強引さのゆえに各方面から批判を呼んでいるが,耳を傾けるべき点も多い。【土田 英三郎】。…
…音楽用語としては既に18世紀初頭の文献(S.deブロサールの《音楽辞典》1703)などにみられ,その後,音楽上の韻律論や拍節論,楽節論,旋律論,楽式論などにおいて理論化されてきた。今日の楽式論,拍節論におけるモティーフ概念を基礎づけたのはH.リーマンで,彼は音楽の生成・継起の根源としてアウフタクト(上拍)性を強調したうえで,上拍→下拍の組合せを単位として旋律をいささか規則的にモティーフへ分節し,これをフレージング論に応用した。しかし今日では,モティーフは音楽の様式や旋律の前後の脈絡に応じて,より柔軟に解釈されている。…
…ノートル・ダム楽派における〈モーダル・リズム〉では6種類のパターンのリズムの組合せによって楽曲が構築され,また,舞曲が盛んになると小節線や楽節といった概念が登場するようになる。たとえば17世紀初期のM.プレトリウスの舞曲集《テルプシコレー》には拍群と小節との関係がはっきりと示されており,さらに,ソナタ形式に代表される18世紀の器楽諸形式では〈リズム的生長〉(H.リーマン)が楽式展開と緊密な関係をもつようになる。そこでは小さな拍群のアクセントの周期運動がより大きな拍(楽節)群のアクセント周期運動を構成するという現象がみられる。…
※「リーマン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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