改訂新版 世界大百科事典 「ロココ美術」の意味・わかりやすい解説
ロココ美術 (ロココびじゅつ)
18世紀,フランス国王ルイ14世時代(1643-1715)末からルイ16世時代(1774-92)初期まで,フランスにおこり,全ヨーロッパに及んだ装飾形式。ロココrococoはさらに,この時代の美術,文化を指す名称として用いられる。語源は,ルイ15世時代(1715-74)に好まれたロカイユrocaille装飾にあり,おそらく〈バロック〉との対比から生まれた蔑称的な隠語である。しかし,19世紀後半より,しだいにこの時代の装飾形式の様式名として用いられ,バロックと同様に,18世紀の文化全般を特徴づける用語となった。ただ学説によってその適用は必ずしも一定ではなく,単に〈後期バロック〉としてとらえる立場もあり,逆に,純粋に装飾形式のみに限定しようとする主張もある。事実,形式原理として見るかぎり,ロココは,バロックの延長線上にあり,その洗練と繊細化と見ることも可能である。しかし,こうした装飾形式をもふくめて18世紀美術の内的な志向を精神史的に考察すれば,明らかに前時代の方向と異なることが理解される。偉大さ,荘重さ,高貴,自己責任をひたすら追求した17世紀の文化に対して,ロココは愛らしさ,軽やかさ,心理的な自由,束縛のない世界を求めている。この種の感覚的・心理的な自由への欲求は,一方では貴族的な華麗さでおおわれ,したがって,やがてディドロらによって退廃として攻撃されることになる。しかし,情緒的なものの開発,軽やかさや自由への志向は,政治的・社会的な自由の確立と相即し,ときにはその前提となっていたとさえ考えられ,その意味でも〈バロック〉に対するものとして〈ロココ〉を認知することができる。
前期
装飾形式としてのロココは,パリ西郊,マルリ・ル・ロアMarly-le-Roiの館の室内装飾にあたった17世紀末のルポートルPierre Lepautre(1660-1744)のデザインにあらわれる。ここで,それまで絵画・彫刻あるいは彫塑的な効果をもつアラベスク模様で全面に装飾されていた鏡板は,周辺部に繊細な縁取りとしての唐草文を残すのみで,他は余白,もしくは余白の多い平面的な装飾となり,軽快さ,典雅さ,平面性を強調した新たな様式を形づくる。この形式は,建築家G.ボフラン,装飾家オプノールGilles-Marie Oppenordt(1672-1742)によって発展せしめられ,ロココの前段階をなした。一方,オードランClaude Ⅲ Audran(1657-1734),J.ベランらも,17世紀末から18世紀初頭,バロックの装飾に比してより自由で幻想的,平面的なアラベスク模様,グロテスク模様,あるいは〈サンジュリーsingerie〉と呼ばれる中国風の模様(シノアズリー)を生みだしている。オードランもやはりマルリ・ル・ロアの館の室内装飾に携わったが,このときJ.A.ワトーが助手をつとめている。
最盛期
やがてワトーは,絵画の分野で〈フェート・ギャラント(雅宴画)〉の主題を生み,その牧歌的情景,典雅な夢想,音楽性,愛を中心とする漫(そぞ)ろ心の表現などで,単に多くの後継者をもったにとどまらず,真にロココ的なるものの先駆をなした。オードランによる空想的な装飾形式,ワトーによる〈フェート・ギャラント〉の主題は,1730年ころから,通常〈ジャンル・ピトレスクgenre pittoresque(絵画情趣的風俗)〉と呼ばれる装飾形式へと発展してゆく。これは,なかば東洋風の風景の中に裸の乙女や恋人たちがロカイユ装飾やアラベスクに囲まれた絵柄で,室内の鏡板,銀細工,陶器の絵付など,あらゆる部分に用いられた。ピノーNicolas Pineau(1684-1754),J.A.メソニエらが,その代表的装飾家である。ルイ15世時代を代表する画家はF.ブーシェで,明るさと官能性,魅惑と平俗が一体となった作品は,ロココの一つの頂点を形づくる。肖像画においても,17世紀のそれが公的なポーズでの個性の威厳を求めたのに対して,J.M.ナティエらは,魅惑,寛(くつろ)ぎの表現や性格の描写を求める。ラ・トゥールMaurice Quentin de la Tour(1704-88)は,イタリアの女流画家R.カリエーラによってもたらされたパステル画をフランスに確立したが,ポンパドゥール夫人像ではパステルの繊細な魅力が十分に発揮され,他方,自画像や老妻の像は,この時代の気どりのなさを伝える。彫刻では,A.コアズボが,性格の機敏な描写で当代を代表している。
この時代の建築は,ボフラン,オプノールのほか,J.A.ガブリエル,主としてバイエルンで活動したF.キュビエらが注目される。建築活動は,ナンシーなどの都市広場の建設や,ベルサイユ風の壮麗な宮殿に代わる私的な館や別荘の造営(王たちですら,私的な離宮やオランジュリーorangerieの小さな館を求めた),時代に適応した室内装飾と室の配置などに特色をもつ。
1750年代に,新古典主義の風潮が突然趣味の方向を変える。しかしこれをロココの終末と見るべきではなく,ロココという情緒性の内部でのモティーフの変化と見ることも可能である。事実,少なくとも革命時まで,繊細さや典雅性を求める方向は同一であり,世紀後半には,J.H.フラゴナールのようなワトーの真の後継者を生んでいる。ブーシェとほとんど同年代のJ.B.S.シャルダンは,静物,室内などに,むしろオランダ風のリアリズムを見せるが,これもロココの感覚性と日常の一致と見ることができようし,ディドロたちが称揚したJ.B.グルーズの〈道徳的絵画〉もロココの感傷主義の枠のなかにある。
周辺地域への伝播
ロココは,その趣味や流行を伴ってヨーロッパ各国に伝播していった。もちろん必ずしもフランス・ロココがそのままに移入されたわけではなく,それぞれの地で,バロック的なもの,民族的なものと融合して独自の世界を生んだ。ドイツを中心とする中欧諸国は,ロココのもっとも重要な局面の一つである。ケルン選帝侯はフランスの建築家ド・コットRobert de Cotte(1656-1735)を重用したし,バイエルン,オーストリア,ザクセン,プロイセンなどにはロココ様式の宮殿や教会堂が営まれた。J.B.ノイマンの設計,イタリアの画家G.ティエポロの天井画,壁画によるビュルツブルクの新司教館も,ロココの室内装飾の一つの極点を見せる。
イタリアでは,ベネチアを中心としてロココの花が開く。ベネチアの,多色のしっくい彫刻を多用した室内装飾にはバロック的な要素が多く,非相称の装飾形式はさほど用いられていない。しかし,当時他のヨーロッパのどの都市よりも日常が祝典的,演劇的であったこの〈水の都〉では,情緒という点ではもっともロココ的であり,ティエポロ,F.グアルディ,カナレット,P.F.ロンギらがその絵画的表現者となった。
スペインもまたロココを受けいれ,それは,ゴヤの初期のタピスリー連作の主題と情緒に示されている。ポルトガルはドイツとともにロココ美術の重要な領域であり,その影響はブラジルにまで及んでいる。イギリスでは,T.チッペンデールの室内装飾などにフランス・ロココの影響が見られるが,例外的に同国はロココ的風潮から孤立している。しかし,J.レーノルズの肖像画,T.ゲーンズバラの子どもや女優を描いた肖像画に,フランス・ロココとのつながりを示す魅惑的な気分が見いだされる。
陶磁器
ロココ的な情緒ある室内装飾を,衣装や家具とともに完成させたのが陶磁器類である。18世紀に陶磁器の製作に捧げられた情熱は,おそらく他のどの時代をも凌駕する。硬質磁器の焼成が成功を見,1710年に王立マイセン磁器製作所が創設されて以降,ドイツ,オーストリアの各地に工場がつくられた。フランスでは25年ころシャンティイで,38年セーブル(いずれも軟質磁器)でそれぞれ開窯し,スペイン,マドリードのブエン・レティロ工場,イタリアのカポディモンテ工場,イギリスのチェルシー,ダービーなどが軟質陶器の産地となっている。これらのおびただしい生産品は色彩や形で姸(けん)を競い,室内壁面や食卓を飾って,いわば当代の雰囲気そのものをつくりあげた。
執筆者:中山 公男
建築
18世紀のフランスにおこったロココ建築はイタリアのバロック様式の不均整や曲線および曲面の好みを受け継いでいるが,背景となった貴族のサロン文化を反映して,バロック建築の重さを脱した軽快で優雅な空間がつくり出された。とくにそれまで室内空間の秩序を定めていた柱や梁の表現が消え,ときに壁面と天井がひと続きになり一体として表現されるまでになったのは,この様式の新しい特徴である。こうした装飾的な面の表現に用いられたのは,ロカイユと呼ばれる貝殻やサンゴなどの形態に由来する文様や唐草文様,さらには草花や鳥,樹木などであり,そこにはロマンティシズムへの傾斜とともに,シノアズリーにも見られるようなエキゾティシズムの傾向もまた現れた。
これの推進者は,トリノ生れのイタリア人メソニエや,ローマに学んだフランス人G.M.オプノール,それにG.ボフラン,クールトンヌJean Courtonne(1671-1739)らであり,ボフランによるオテル・ド・スービーズ,クールトンヌによるオテル・ド・マティニヨンなど,パリのいわゆるオテル(邸館)建築がその主要な舞台となった。これらにおいては,室内装飾とともに,サロンの生活にふさわしい平面の開発や家具のデザインにも力が傾注された。
ロココ様式に対する各国の反応はさまざまで,スペインのバレンシア地方などはフランスの直接の影響下に独特の様式が発展したが,イタリアのようにあまりこれに関心を示さない地域もあった。その中でフランスと並んでロココの輝かしい成果を生み出したのはゲルマン文化圏である。ここでの主たる展開の場は宮殿建築と教会堂建築であり,とくに後者においては往々にして後期バロック的な空間がロココの装飾をまとう形をとった。ニュンフェンブルク宮殿内のアマーリエンブルク(1734-39,キュビエ)やポツダムのサンスーシ宮殿(1745-47,クノーベルスドルフ)は,ドイツ・ロココの典型的な作品である。
→ルイ王朝様式
執筆者:横山 正
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報