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中世ドイツの詩人。生没年不詳。ワルター・フォン・デル・フォーゲルワイデと全称されることも多い。ゲーテ以前のドイツ最大の抒情詩人という評価は一定しているが,客観的伝記資料としては,1203年聖マルティンの日にパッサウの司教ウォルフガーから毛皮の外套の代価を給与されたことを示す記録が残っているだけである。フォーゲルワイデ(鳥の餌場)という姓が出身の地名に由来する通称であるか,遍歴詩人を示唆する渾名(あだな)であるかも決めがたい。一編の長大なマリア賛歌と約70編のミンネザングのほかに,政治的道徳的時事問題や個人的体験を歌った100余編の格言詩があり,それを手がかりにすると生涯はおよそ1170-1230年の間と推定される。ウーラントのワルター伝(1822)以来,種々の伝記が書かれてきたが,いずれも作品解釈だけによるものであり,ワルター像にはつねにドイツ文学研究の時代的傾向が反映している。その意味でも代表的なドイツ詩人である。バーベンベルク家のウィーンの宮廷で作詩と作曲の技を学び,ラインマルReinmar von Hagenauを先輩にナイトハルトを後輩にもった彼は,伝統的ミンネザングの完成者になると同時に,その崩壊をも誘発する。ラインマルの歌う宮廷風恋愛(いわゆる〈高きミンネ〉)を一連のパロディによって批判し,身分社会の制約にとらわれない〈心からの愛〉を称揚して,中世ラテン抒情詩の影響を受けた牧歌風の舞踏歌,いわゆる〈低きミンネ〉の歌を作ったが,やがてそれはナイトハルトに受け継がれ,ワルターの意図せぬ方向に展開していく。彼が時代の制約を超えて個性を発揮しえたのはむしろ格言詩の領域であり,愛の詩人としてよりも警世の詩人としてのほうが中世後期に生産的な影響を与えた。オーストリア公レオポルト6世の知遇を得ず遍歴生活を余儀なくされた彼を保護したのが中世ドイツ文学最大のパトロン,チューリンゲンのヘルマン方伯であり,ここで彼がウォルフラムに出会ったことは,〈ワルトブルクの歌合戦〉成立の一つの要因であったと思われる。彼以後の格言詩人たちは彼を自分たちのマイスターと呼んでいる。
執筆者:岸谷 敞子
ドイツ出身のアメリカの指揮者。本名はシュレジンガーSchlesinger。ベルリンに生まれ,同地のシュテルン音楽院卒業。1894年ハンブルク歌劇場指揮者になる。そのときマーラーのもとで働き,その推挙によって1901年ウィーン宮廷歌劇場に進出。さらにミュンヘン国立歌劇場,ベルリン市立歌劇場,ライプチヒのゲバントハウス管弦楽団指揮者を歴任したが,ナチスの台頭から逃れてフランス経由でアメリカに移住。47年から2年間ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団の指揮者を務めた。またカリフォルニアに録音用オーケストラを得て盛大に録音。戦後再度ウィーンをはじめヨーロッパ各地を訪問して客演,温かく歓迎された。後期ロマン派の特性を示す指揮で,豊かな力強い音楽を聞かせた。
執筆者:大木 正興
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ドイツ出身のアメリカの指揮者で、ピアノ奏者としても著名。20世紀前半を代表する大家の1人。9月15日ベルリンに生まれる。生地の音楽院で学んだのち指揮活動に入り、ケルンを振り出しにハンブルク、ブレスラウ(現ブロツワフ)、プレスブルク(現ブラチスラバ)の歌劇場を経て、1900年ベルリン宮廷歌劇場指揮者となる。マーラーに認められ、その下で01~12年ウィーン宮廷歌劇場副指揮者を務める。この間マーラーから音楽をはじめ多くのことを学び取ったが、それが後年マーラー解釈で一家をなす下地となった。13~22年ミュンヘン歌劇場音楽監督、23年アメリカデビュー、25~29年ベルリンのシャルロッテンブルク市立歌劇場指揮者、29~33年ライプツィヒ・ゲバントハウス管弦楽団指揮者。ナチスの政権掌握によりドイツを去ってウィーンに移り、35~38年ウィーン国立歌劇場ならびにウィーン・フィルハーモニーを本拠に活動した。38年ナチスがオーストリアを併合するやフランスに逃れ、さらに39年アメリカに移住。NBC交響楽団、ニューヨーク・フィルハーモニー、メトロポリタン歌劇場などで活躍ののち、80歳になった56年に演奏活動から引退。その後は彼のために編成されたコロンビア交響楽団を指揮、録音に専念し、62年2月17日カリフォルニア州のビバリー・ヒルズで没した。優雅で豊かな情緒をたたえたその演奏は、19世紀のドイツ音楽のよき伝統を反映したものというべく、温かい人間性を感じさせるのが特色。とりわけマーラーとモーツァルトに、その特色が発揮された。著書に『グスタフ・マーラー』(1937)、『主題と変奏』(1946)などがある。
[岩井宏之]
『村田武雄訳『マーラー 人と芸術』(1960・音楽之友社)』▽『内垣啓一・渡辺健他訳『主題と変奏――ブルーノ・ワルター回想録』(1965・白水社)』▽『L・W・リント編、土田修代訳『ブルーノ・ワルターの手紙』(1976・白水社)』▽『宇野功芳著『ブルーノ・ワルター――レコードによる演奏の歩み』改訂版(1979・音楽之友社)』
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[抒情詩のモティーフ]
抒情詩ではトルバドゥールの様式を受け継いだミンネザングが成立し,貴婦人への愛の奉仕を最高の理念とする歌が多く作られた。ラインマルReinmar von Hagenauを頂点とする盛時のミンネザングは,この愛を神への愛にまで結びつけようとしたが,一方ワルター・フォン・デル・フォーゲルワイデは身分の低い娘を登場させて世俗の愛をうたい,あるいは政治的発言を織り込んだ格言詩をつくり,ナイトハルト(ロイエンタールの)などにいたると,騎士と農民の間の力関係の混乱がパロディの形をとって農村を舞台にした詩に反映されることになる。他方宮廷詩とは別に,《カルミナ・ブラーナ》のように,遍歴学生や農民によって歌われていた巷間の歌がたくましく育っていた。…
…一方,ミンネザング興隆の原動力は,エロスの歌を楽しむ人間集団の現世肯定的欲求にあり,そのような人々のために歌うミンネゼンガーの詩作態度も,倫理的たてまえと官能的本音の間を微妙に揺れ動いて,両者の種々の組合せの中から生まれるニュアンスの多様性を楽しむ独特の文学形式となった。初期のドナウ地方の詩人キュルンベルガーder Kürnberger,ディートマル・フォン・アイストDietmar von Aist,ライン地方の先駆者フリードリヒ・フォン・ハウゼンFriedrich von Hausen(1150ころ‐90),最盛期の代表的詩人ハインリヒ・フォン・モールンゲンHeinrich von Morungen,ラインマル・フォン・ハーゲナウReinmar von Hagenau,ワルター・フォン・デル・フォーゲルワイデ,崩壊期のナイトハルトら,愛という唯一のテーマを歌いながら,表現技術の面ではそれぞれに独自性をもつ。しかし,このジャンルの生産的な時期は1220年ころで終わり,その後は急速に亜流化していく。…
※「ワルター」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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