一国一城令(読み)いっこくいちじょうれい

精選版 日本国語大辞典 「一国一城令」の意味・読み・例文・類語

いっこくいちじょう‐れい ‥イチジャウ‥【一国一城令】

〘名〙 一領国一城の制限令をいう。江戸幕府大名統制とその軍事力抑制のための策として、大坂落城直後の元和元年(一六一五)六月、諸大名に対し「分国中、居城をば残し置かれ、其の外の城は悉く破却あるべし」と命じた。さらに同年七月発令の武家諸法度第六条にも同趣意の禁制を反復した。その後寛永一二年(一六三五)の武家諸法度の改正によりこの規定はさらに具体的となって、幕府の諸大名統制に相当の効果をあげた。

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改訂新版 世界大百科事典 「一国一城令」の意味・わかりやすい解説

一国一城令 (いっこくいちじょうれい)

江戸幕府が諸大名に出した布令。豊臣氏滅亡の翌々月の1615年(元和1)閏6月,幕府は諸大名あてに居城以外の分国中の城をすべて破却するよう命令した。一国一城令とよばれるこの指令は主として西日本の大名を対象とし,数日うちに約400の城がこわされたという。奥羽でも20年秋田佐竹氏が,大館・横手を除くすべての支城破壊を命じられている。1615年7月公布の武家諸法度では,無断での居城修補を禁じるとともに,新規の築城を厳禁した。19年の福島正則の改易はこの令にふれたためとされている。35年(寛永12)の武家諸法度改訂の際にもこの規定が再確認された。これよりさき,織田信長はとくに1580年(天正8)の石山落城以後は諸城破却を基本政策の一つとし,豊臣秀吉も後北条氏滅亡直後の90年秋に奥羽の諸大名に居城以外の城の破却を厳命している。一国一城令は,信長以来の大名・国人統制策の総仕上げをなすものと位置づけることができる。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「一国一城令」の意味・わかりやすい解説

一国一城令
いっこくいちじょうれい

江戸幕府の大名統制策の一つ。一領国一城という趣旨のもとに、大名の本城(居城)を除くすべての支城を破壊することを目的としたもので、大坂の役後の1615年(元和1)閏(うるう)6月、武家諸法度(しょはっと)に1か月先だって発布された。江戸初期の大名領国は、戦国大名の領国を受け継ぎ、大名の本城のほか領内各地に支城が設けられ、大名の一族や有力家臣が城番として配置されるとともに、その下に付衆(つけしゅう)が分駐したが、それがそのまま城番を組頭とし、付衆を組の構成員とする軍事的組織によって編成された。

 一国一城令は、こうした大名領国における臨戦的な軍事体制の否定をねらいとしたもので、それによって、番方(ばんかた)の組織が改組されるとともに、藩の地方(じかた)支配は、城番にかわって役方(やくかた)層の郡奉行(こおりぶぎょう)―代官が担当することになった。ここに大名領国は、臨戦体制より農民支配を基軸とする藩体制に転換し、いわゆる「元和偃武(げんなえんぶ)」が開始された。

[藤野 保]

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百科事典マイペディア 「一国一城令」の意味・わかりやすい解説

一国一城令【いっこくいちじょうれい】

徳川幕府が,1615年諸大名に領内の居城以外のすべての城の破却を命じた法令。主として西国諸大名の軍事力を削減する目的で出したもので,数日のうちに約400の城が壊されたという。同年には武家諸法度(ぶけしょはっと)で,居城の無断修補を禁じ,新城建築を厳禁している。
→関連項目熊本藩

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「一国一城令」の解説

一国一城令
いっこくいちじょうれい

江戸初期の大名統制法令。大坂夏の陣直後の1615年(元和元)閏6月13日付で酒井忠世・土井利勝・安藤重信ら幕府年寄衆の連署奉書で出され,西国の外様大名がおもな対象であった。内容は大名分国内における居城以外の城郭の破却を命じたもので,これにより数日のうちに約400の城がとり壊されている。その意図が,幕府による大名軍事力の削減であることは確かだが,一方で大名家臣による城郭所持の可能性も否定され,有力家臣に対する大名の軍事的優位性が促進された。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「一国一城令」の意味・わかりやすい解説

一国一城令
いっこくいちじょうれい

江戸幕府が出した大名統制の法令。徳川家康が慶長 20 (1615) 年6月 13日諸大名に対し,居城以外のすべての城の破却を命じたもので,西国大名に対し,特に厳重に施行された。その趣旨は,直後に発布された『武家諸法度』のなかでも強調され,諸大名の軍事力の抑圧をおもな目的としていた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「一国一城令」の解説

一国一城令
いっこくいちじょうれい

江戸初期,幕府が出した,居城以外の城郭の破壊を命じた法令。大名統制策の一つ
1615(元和元)年発布。ことに西国地方の築城を規制し,約400の城が破壊されたといわれる。支城の構築を認めた例外もある。諸大名の軍事的抑圧と幕藩体制の確立に寄与した。

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世界大百科事典(旧版)内の一国一城令の言及

【江戸時代】より

…このような関係が,初代の死後を継いだ2代目の若い主君と誇り高い老巧の家老との間で成立しえないのはむしろ当然であり(黒田長政と後藤基次の関係はその好例である),江戸時代初期には両者の関係が原因となった御家騒動が頻発し,これによって取りつぶされた大名は少なくない。 幕府は秩序の安定のため,こうした紛争では大名の側に立つ政策を一貫して取り(元和の〈一国一城令〉は,藩中藩を作る家老の勢力をそぐ意味もあった),また家老の軍団を支えていた小市場圏が,大名の城下町を中心とした市場圏(三都を中心として成立した全国市場と結びついていた)に吸収・再編成されたことによって,軍団の長としての家老の独立性も失われた。1660年代に幕府が証人制を廃止したのも,独立性を失った家老から人質を取る意味がなくなったからである。…

【城】より

… 安土城天主を手がけたのは尾張の熱田大工,大坂城は法隆寺大工であったが,ほかに京都,近江,堺,紀州など,中世からすぐれた建築に携わってきた各地の大工が,城の建築に腕を競った。
[城郭の終焉]
 大坂夏の陣の翌1616年(元和2),幕府は一国一城令を発して,大名の居城を除く諸城の破却,居城修復の際の届出許可制を強いた。これは戦国大名に始まり,信長・秀吉が支配地ですすめた城割りを徹底させたものであった。…

※「一国一城令」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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