五摂家(読み)ゴセッケ

デジタル大辞泉 「五摂家」の意味・読み・例文・類語

ご‐せっけ【五摂家】

鎌倉時代以後摂政関白に任じられる五つ家柄。藤原北家の流れで、近衛このえ九条二条一条鷹司たかつかさ五家五門

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精選版 日本国語大辞典 「五摂家」の意味・読み・例文・類語

ご‐せっけ【五摂家】

  1. 鎌倉以後、藤原氏うちで摂政・関白に任じられる五つの家柄で、近衛・九条・二条・一条・鷹司の五家をいう。この五家は、藤原道長の家流が、忠通の後、近衛・九条に二分し、ついで九条から二条・一条が、近衛から鷹司が分立したもの。五門。
    1. [初出の実例]「五摂家ともにいづれも、今甲乙はなけれども」(出典:随筆・戴恩記(1644頃)上)

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百科事典マイペディア 「五摂家」の意味・わかりやすい解説

五摂家【ごせっけ】

摂関家(せっかんけ),摂家とも。摂政関白になるべき家柄の藤原氏のうちの近衛(このえ)家鷹司(たかつかさ)家九条家二条家一条家の5家をいう。藤原氏は忠通〔1097-1164〕のあと基実の近衛家と兼実の九条家に分かれ,近衛家からは鷹司家が,九条家からは二条家と一条家が分立した。五摂家は順次摂関となって明治至り,いずれも公爵に列した。
→関連項目一条実経一条能保

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改訂新版 世界大百科事典 「五摂家」の意味・わかりやすい解説

五摂家 (ごせっけ)

藤原氏のうち近衛,九条,二条,一条,鷹司の5家をいう。藤原氏は北家出身の良房・基経父子が摂政・関白となって以来,その子孫が相ついで摂政・関白となり,同時に氏長者を兼帯したが,このように摂政・関白を出す家を摂関家または摂家といった。ところが鎌倉時代の初頭に,源頼朝の推挙により兼実が兄基実の子基通に代わって摂政・氏長者となり,基通の近衛家に対して九条家を興した。ここに摂関家は近衛と九条に分立したが,さらに兼実の孫道家は,その子教実・良実・実経を相ついで摂関につけ,良実が二条家を,実経が一条家を興して教実の九条家と3家に分かれた。また近衛家も基実の曾孫兼経が弟兼平に摂政を譲補して,新たに鷹司家の分立を認め,摂関家は5家に分かれた。爾来,摂政・関白は明治維新に際して廃止されるまで,この5家から選任されるのを例とした。1884年華族令制定に当たっては5家ともに公爵を授けられ,1947年華族制廃止に至るまで,実質上公家華族の筆頭地位を保った。
藤原氏
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「五摂家」の意味・わかりやすい解説

五摂家
ごせっけ

藤原北家(ほっけ)の主流で、摂政(せっしょう)、関白となる5家。五つの摂関家の意。摂関家はすでに平氏政権のもとで近衛基通(このえもとみち)が摂政に推され、ついで鎌倉幕府によって九条兼実(くじょうかねざね)が摂政にあげられ、外側の政治的圧力に左右される状況となり、藤原氏の嫡流は基実(もとざね)の長子基通(近衛)と、兼実(九条)の2流に分かれた。その後、兼実の孫道家(みちいえ)は朝幕の間に勢威を振るい、教実(のりざね)(九条)、良実(よしざね)(二条)、実経(さねつね)(一条)と相次いで摂関となった。ついで摂政となった近衛兼経(かねつね)は嗣子(しし)基平(もとひら)が幼少であったので上表して弟兼平(かねひら)(鷹司(たかつかさ))に摂政を譲り、以後はこれら5家によって摂政・関白は回り持ちとなる。五摂家の確定した時期は、兼平が摂政となった1252年(建長4)10月とされる。

[橋本政宣]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「五摂家」の意味・わかりやすい解説

五摂家
ごせっけ

摂政関白の家柄。藤原氏北家道長の流れで,近衛家九条家鷹司家一条家二条家の5家。鎌倉時代,忠通の子基実,兼実がそれぞれ近衛,九条の祖となり,兼実の孫道家の子良実,実経がそれぞれ二条,一条の祖となった。また,近衛家実の子兼平が鷹司の祖となった。明治維新後,いずれも公爵。

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旺文社日本史事典 三訂版 「五摂家」の解説

五摂家
ごせっけ

鎌倉時代以降の摂政・関白の家柄
藤原北家道長の流れである近衛・鷹司 (たかつかさ) ・九条・二条・一条の5家のこと。平氏滅亡後,1186年源頼朝の奏請により九条兼実が摂政になって以来,藤原嫡流は近衛・九条の2家に分かれた。その後,鎌倉中期に近衛から鷹司が,九条から二条・一条が分立。江戸末期まで順次摂関となり,明治期に至り華族に列し公爵となった。

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とっさの日本語便利帳 「五摂家」の解説

五摂家

鎌倉以降、摂政・関白を出すことのできた家柄。▽近衛家、九条家、二条家、一条家、鷹司家

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「五摂家」の解説

五摂家
ごせっけ

摂家(せっけ)

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世界大百科事典(旧版)内の五摂家の言及

【鎌倉時代】より

… 九条家は勢威を失ったが,打撃を受けたのは九条家だけではなかった。九条家のライバルであった近衛家を含めて摂関家全体の地位が低下し,摂関の人事に幕府が干渉するようになったうえ,五摂家が分立し,摂関が5家でたらいまわしされるなど,摂関職はまったく形骸化した。西園寺家だけは関東申次と天皇の外戚の地位を独占し,摂関家にかわる勢威を誇った。…

【近衛家】より

藤原氏北家の嫡流,五摂家の一つ。家号は始祖基実の殿第に由来するが,また近衛大路に面する宮門号にちなんで陽明ともいう。…

【摂関家】より

…平安時代末,鳥羽天皇の践祚に当たって,天皇の外戚であった大納言藤原公実が,外戚でない摂政はいないとして,前代の関白だが外戚関係がない藤原忠実を退けてみずから摂政に就任しようとしたが,代々摂籙の子孫でない者が摂政になった例はないとしてその願いを排した。以来,天皇と外戚関係はなくとも,代々摂政・関白の子孫が摂政・関白に補任されることになり,鎌倉時代の初め,摂関家が,近衛,九条,二条,一条,鷹司の5家に分立したのちも,摂政・関白はこの五摂家より必ず補任されることになった。明治維新のさい,摂関制が廃止されたが,この5家はその後も華族の筆頭の位置にあって,1884年に華族令が制定されるや,公爵を授けられた。…

【摂関家渡領】より

…そして源平争乱の間,めまぐるしく摂関・氏長者が交替するたびに,一般家領の引渡しが問題となったが,1186年(文治2)摂関家嫡流の基通に代わって,その叔父兼実が源頼朝の後援により摂政・氏長者となるに及び,後白河院は頼朝の要求をしりぞけて,家領の大部分を基通に領有させ,兼実には4ヵ所の渡領と氏院寺領だけ譲渡させたので,氏院寺領を含む渡領と一般家領とは完全に分離するに至った。 こうして摂関家は基通の近衛家と兼実の九条家の両流に分かれ,さらに鷹司,二条,一条の3家が分立して五摂家が成立し,それぞれ家領を形成したが,佐保殿以下4ヵ所の渡領と氏院寺領は,摂関職・氏長者の交替ごとに,前任者から新任者に渡され,氏院寺領も佐保殿以下の渡領と同じく殿下渡領とよばれるようになった。ただ佐保殿以下の渡領は,のちのちまで氏院寺領とは取扱いを異にし,譲渡に際しては古来の書式に従った渡文が作成され,佐保殿は執事家司が,鹿田・方上両荘は執事および年預家司が,楠葉牧は御厩別当が知行する例になっていた。…

※「五摂家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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