朝鮮の李朝(りちょう)末期に日韓合邦運動を展開した団体。合同一進会ともいう。東学の第3代教主孫秉煕(そんへいき/ソンビョンヒ)の指示により、李容九(りようきゅう/イヨング)(1868―1912)が東学の進歩会と宋秉畯(そうへいしゅん/ソンビョンジュン)の一進会とを1904年に合同して結成したもので、会長は李容九。おもな活動は日露戦争時の日本への協力、教育事業、演説会、開拓事業、機関誌の発行など。1905年に乙巳(いっし)保護条約(第二次日韓協約)に賛成宣言をしたことで義兵等の反発を招き、東学への政府の弾圧を恐れた孫秉煕は李容九らを破門した。政府や義兵と対立する大韓協会や西北学会と3派提携を試みたが実現しなかった。1909年、日韓合邦を推進するべく上奏文と請願書を韓国の皇帝と首相、日本の統監に提出し、世論の非難を浴びた。翌1910年8月、韓国併合が行われ、他の団体とともに解散させられた。
[原田 環]
『金東明著「一進会と日本」(『朝鮮史研究会論文集』31所収・1993・朝鮮史研究会)』▽『永島広紀著「一進会の活動とその展開」(『年報 朝鮮学』5所収・1995・九州大学朝鮮学研究会)』
日露戦争中の1904年8月,日本軍通訳をつとめた宋秉畯(へいしゆん)が組織した朝鮮の親日御用団体。最初は開化政策を標榜して尹始炳ら独立協会系の人物を取りこんだが,同年末組織拡大の必要から李容九の率いる東学系結社進歩会を吸収した。翌05年,朝鮮植民地化の動きが本格化するにつれて日本政府および軍の特別の庇護を受け,日本の政策を支持する運動を活発に展開した。さらに一進会は,朝鮮内の反日的な動向を探るスパイ活動や日韓併合に向けての親日世論作りのために利用された。しかしその露骨な親日姿勢は大衆の反感を買い,反日気運を高める結果をもたらした。しかも会の実体は会長李容九や宋秉畯などの利権集団でしかなく,当局からも煙たがられたが,朝鮮内にも日韓併合支持勢力があるという宣伝効果を得るためにその存在が許された。日韓併合が実現すると解散させられた。
→日韓併合
執筆者:馬渕 貞利
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…貧農の出で苦節して東学の幹部になったが,1894年甲午農民戦争時の責を問われて逮捕される。出獄後,朝鮮民族を危機から救うために日本と提携する必要を説き,進歩会をひきいて1904年一進会に合流,翌年同会会長となる。以後は一貫して日韓合邦論を提唱,《韓日合邦建議書》を国王や要路の人物に提出することもした。…
※「一進会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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