三番町(読み)さんばんちよう

日本歴史地名大系 「三番町」の解説

三番町
さんばんちよう

[現在地名]千代田区九段南くだんみなみ三―四丁目・九段北くだんきた三―四丁目

明治五年(一八七二)表四番町おもてよばんちよう通南側、三番町通北側・南側、表六番町おもてろくばんちよう通北側の一部を画して成立。東は富士見ふじみ町一丁目、西は土手三番どてさんばん町、南は上六番かみろくばん町・中六番町、北は四番町。江戸時代初期からの武家地で、正保期(一六四四―四八)には一面屋敷割されていたことが確認できる(正保江戸絵図)。元禄一〇年(一六九七)半蔵はんぞう御門外堀端通より田安たやす御門外元飯田もといいだ町辺りまで幕府用地となった影響で、三番町通と表六番町通に挟まれた区画の屋敷と道路に若干の変更があったほかは、幕末まで大きな変化はなかった。


三番町
さんばんちよう

[現在地名]福江市吉久木町よしくぎちよう

福江城の西、福江城下の外縁を守衛する位置にある。正保四年(一六四七)に町割された三ヵ町の一つで(五島編年史)、長柄衆が集住した。延宝六年(一六七八)の諸役付万定書(青方文書)では「参番町」番役として小頭二・組子一九が勤めた。文化一〇年(一八一三)六月、伊能忠敬の一行は三番町などを測量(伊能忠敬測量日記)。安政二年(一八五五)福江市中で流行病が蔓延したので八幡宮の神幸が行われるとともに、城内しろうち五座・とこね町(床ノ上町)新小人しんこぶと町・うしろ町・えびす町・御船おふな町・うえ町・よろず町・観音寺かんのんじ町などの町の口々、計四三座で市神楽が奉納されたという(五島編年史)


三番町
さんばんまち

[現在地名]大野市ほん町・もと町・明倫めいりん

三番通の両側町。道幅五間。中央に用水が通る。東は四番しばん町、西は二番にばん町。このうち六間ろつけん通から南は大工だいく町。寛保三年(一七四三)町絵図(「奥越史料」所収)によれば高五八・二八二七石で、家数一〇一(うち寺一)。文久二年(一八六二)五月の人別寄帳控(布川家文書)では、男四三一・女四五三、家数一一四(うち本家一一〇・医師四)


三番町
さんばんまち

[現在地名]高岡市三番町

木舟きぶね町の東に並行し、南北に延びる両側町で、南は一番いちばん町、北は源平板屋げんぺいいたや町。本町で、氷見屋長助が荒物屋、田子屋権五郎が肴屋、角屋六兵衛が油小売蝋燭屋を始め成立、町名は三番目に開かれたことによるという(高岡町由緒聞書)。一番町・源平板屋町とともに一番街いちばんまち通とよばれた。時割は五時三歩八厘、地子地一六六歩(不歩記)。明治六年(一八七三)には役地・地子地を含め二千七三八坪二合(沽券調総計帳)


三番町
さんばんちよう

[現在地名]松山市三番町三―四丁目

松山城下町の南部に位置し、二番にばん町・四番よばん(千船町)に平行する東西の町筋とその周辺を含む。町筋の東は唐人とうじん町、西は出淵いでぶち町に接し、郷村―城下町―郷村へ貫通する重要な幹線道路であった。東は小唐人ことうじん町、西はえのき町、南は四番町、北は二番町に接する。初めこの地域一帯を代官だいかん町と総称したようで、元禄―正徳年間(一六八八―一七一六)と推定される松山秘図(伊予史談会蔵)に代官町三番町と記入されているのを初見とする。


三番町
さんばんちよう

[現在地名]明石市日富美町ひふみちよう岬町みさきちよう

西樽屋にしたるや町の南側にある両側町。西は二番にばん町、東は五分一ごぶのいち町、南は新浜しんはま。初め明石藩の人足三番組が住んだが(明石名勝古事談)、のち武家屋敷が不足したため家中町とし、藩士を住まわせた。


三番町
さんばんちよう

上京区七本松通下長者町下ル

町は南北に通る七本松しちほんまつ通に沿い、中央以南は東隣の七番町とともに典型的な寺町となる。平安京大内裏の中央やや西寄りの跡地(「拾芥抄」宮城指図)

寛永一四年(一六三七)洛中絵図には、北から正覚しようかく寺・福寿院観音寺・極楽寺・大雄寺及び松月院が甍を並べるが、町屋はなく野畑。寛保初京大絵図に「三はん丁」とみえ、町名由来は一番町と同じである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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