三船敏郎(読み)ミフネトシロウ

デジタル大辞泉 「三船敏郎」の意味・読み・例文・類語

みふね‐としろう〔‐としラウ〕【三船敏郎】

[1920~1997]俳優。中国、青島チンタオの生まれ。黒沢明監督の「酔いどれ天使」に主演して、一躍スターとなる。以後、「羅生門らしょうもん」「七人の侍」「天国と地獄」など、黒沢作品に欠かせない俳優として活躍。「レッドサン」「グランプリ」など、海外の作品にも数多く出演した。

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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「三船敏郎」の解説

三船 敏郎
ミフネ トシロウ


職業
俳優 映画プロデューサー

肩書
三船プロダクション社長

生年月日
大正9年 4月1日

出生地
中国・青島

出身地
旧満州・大連

学歴
大連中〔昭和13年〕卒

経歴
父は秋田県出身の写真師で、中国・青島で写真屋を営む。4歳の時に遼寧省の大連に移り、昭和8年大連中学に入学するが、父が病気で倒れたため家業を手伝うようになった。13年中学を卒業し、15年満州の陸軍航空隊に入隊。写真技術を買われて写真部に配属され、以後約5年に渡り軍隊生活を送る。終戦後日本に引き揚げるが、国内に頼るべき親類もいなかったため戦友の家に居候しながら職を探したという。22年カメラマン助手を志望して東宝に履歴書を出したところ、なぜか俳優募集の面接に呼び出しがかかり、およそ俳優になるつもりはなかったものの、そのふてぶてしさが山本嘉次郎らの眼に止まり、東宝ニューフェイス第1期生として入社。同年谷口千吉監督の「銀嶺の果て」でデビュー。23年黒沢明監督の「酔いどれ天使」では長い軍隊生活の欲求不満を一気にぶちまけるような強烈な演技で注目を浴び、以後、同監督作品の「静かなる決闘」「野良犬」「醜聞」「羅生門」「白痴」「七人の侍」「生きものの記録」「蜘蛛巣城」「どん底」「隠し砦の三悪人」「用心棒」「椿三十郎」「赤ひげ」で主演を務めて世界にその名を知られる俳優となった。37年三船プロダクションを設立してタレントマネジメント及び映画の自主製作に乗り出し、まず38年に自らの製作・監督・主演で「五十万人の遺産」を発表するが、興行的には成功せず。しかし、岡本喜八監督を起用し、自身の主演で撮った40年の同プロ作品「侍」「血と砂」がヒットした。41年には東京・世田谷区成城に大手映画会社並みのスタジオと時代劇用オープンセットを建設し、42年からはテレビ映画の製作にも着手。さらに43年石原プロと提携し、自身に加えて滝沢修志村喬佐野周二石原裕次郎高峰三枝子と新旧大スターを揃い踏みさせた熊井啓監督「黒部の太陽」で大成功を収め、一気にプロダクションとしての名声を高めた。その他、映画では小林正樹監督「上意討ち・拝領妻始末」、稲垣浩監督「風林火山」「待ち伏せ」、岡本監督「赤毛」、沢島忠監督「新選組」などを、テレビ映画では「大忠臣蔵」「荒野の素浪人」「隠し目付参上」などをプロデュース及び主演。これ以外にも谷口監督の「ジャコ万と鉄」、稲垣監督の「宮本武蔵」「無法松の一生」「日本誕生」、岡本監督「暗黒街の対決」、丸山誠治監督「日本海大海戦」などに主演し、「グラン・プリ」「太平洋の地獄」「レッド・サン」「将軍」といった外国映画にも出演するなど、“世界のミフネ”として国内外で幅広く活躍した。その芸風は男性的かつ豪放で、アクションスターや時代劇俳優にありがちな見得や思い入れを省略し、一気呵成に動くところに特質があった。アクションや殺陣にも定評がある。中年以降は風格豊かな大人物や偉人を骨太に堂々と演じ、晩年における熊井監督「千利休・本覚坊遺文」「深い河」の演技も国際的に絶賛された。黒沢監督とは蜜月だった時期がある一方、確執も深く、40年の「赤ひげ」以降は二度と組むことはなかったが、その演技は高く評価していたといわれている。テレビやCM出演も多い。

所属団体
日本映画テレビプロデューサー協会

受賞
芸術選奨文部大臣賞(昭和42年度)〔昭和43年〕「上意討ち・拝領妻始末」 フランス芸術文化勲章〔平成1年〕,勲三等瑞宝章〔平成5年〕 ブルーリボン賞主演男優賞(昭和26年度・36年度・40年度)「馬喰一代」「用心棒」「赤ひげ」,キネマ旬報賞主演男優賞(昭和36年度・43年度)「用心棒」「黒部の太陽」,ベネチア国際映画祭男優賞〔昭和36年・40年〕「用心棒」「赤ひげ」,ベネチア国際映画祭フィプレシ賞(第28回)〔昭和42年〕「上意討ち・拝領妻始末」,UCLAメダル〔昭和61年〕,牧野省三賞(第29回)〔昭和62年〕,ブルーリボン賞助演男優賞(昭和62年度)「男はつらいよ・知床旅情」,川喜多賞(第6回)〔昭和63年〕,日本映画批評家賞功労賞〔平成5年〕,ゴールデンアロー賞(特別賞 第35回)〔平成10年〕 毎日映画コンクール男優主演賞(昭和32年度)「蜘蛛巣城」「どん底」,毎日映画コンクール男優助演賞(昭和62年度)「男はつらいよ・知床旅情」

没年月日
平成9年 12月24日 (1997年)

家族
長女=三船 美佳(タレント),弟=三船 芳郎(三進工業会長),孫=三船 力也(俳優)

伝記
血の玉座―黒沢明と三船敏郎の映画世界黒澤明の作劇術邦画の昭和史―スターで選ぶDVD100本今ひとたびの戦後日本映画黒部の太陽―ミフネと裕次郎映画俳優東宝砧撮影所物語―三船敏郎の時代クロサワさーん!―黒沢明との素晴らしき日々新東宝秘話 泉田洋志の世界心残りは…父・鶴田浩二今ひとたびの戦後日本映画にんげん蚤の市クロサワさーん!―黒沢明との素晴らしき日々不滅の弔辞今ひとたびの戦後日本映画殺陣―チャンバラ映画史彼らは何歳で始めたか昭和・平成タレント太平記―私をトリコにした男たち映画極道(スクリーンマフィア)物語―映画の舞台裏(しかけ)お見せします 上島 春彦 著古山 敏幸 著長部 日出雄 著川本 三郎 著熊井 啓 著佐藤 忠男 著高瀬 昌弘 著土屋 嘉男 著鈴木 義昭 著池部 良 著カーロン 愛弓 著川本 三郎 著高峰 秀子 著土屋 嘉男 著「不滅の弔辞」編集委員会 編川本 三郎 著永田 哲朗 著富永 直久 著林家 木久蔵 著日本映画助監督協会 編(発行元 作品社フィルムアート社新潮社岩波書店新潮社晶文社東宝出版・商品事業室新潮社プラザ,青心社〔発売〕文芸春秋新潮社中央公論新社文芸春秋新潮社集英社岩波書店社会思想社ダイヤモンド社学習研究社ダイナミックセラーズ ’10’08’07’07’05’03’03’02’01’01’00’00’00’99’98’94’93’91’91’88発行)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「三船敏郎」の意味・わかりやすい解説

三船敏郎
みふねとしろう
(1920―1997)

俳優。中国の青島(チンタオ)に生まれる。大連(だいれん)中学を卒業。1946年(昭和21)東宝第一期ニュー・フェイス募集で採用されて入社、翌年『銀嶺(ぎんれい)の果て』でデビューした。1948年黒澤明に認められ『酔いどれ天使』の主役に起用され、豪快な演技力をみせて一躍スターの座を獲得。以後『静かなる決闘』『野良犬』『羅生門(らしょうもん)』『七人の侍』『用心棒』などの黒澤作品に個性豊かな演技を発揮した。1962年には三船プロを設立。また『価値ある男』『レッド・サン』『1941』などの海外作品にも出演、国際的な活躍をみせた。そのほかに『蜘蛛巣城(くものすじょう)』『無法松の一生』『椿(つばき)三十郎』『天国と地獄』『赤ひげ』『日本のいちばん長い日』『千利休(せんのりきゅう) 本覺坊遺文(ほんがくぼういぶん)』など。

[長崎 一]

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20世紀日本人名事典 「三船敏郎」の解説

三船 敏郎
ミフネ トシロウ

昭和・平成期の俳優,映画プロデューサー 三船プロダクション社長。



生年
大正9(1920)年4月1日

没年
平成9(1997)年12月24日

出生地
中国・青島

出身地
旧満州・大連

学歴〔年〕
大連中〔昭和13年〕卒

主な受賞名〔年〕
ブルーリボン賞主演男優賞(昭26年度 36年度 40年度)「馬喰一代」「用心棒」「赤ひげ」,毎日映画コンクール男優主演賞(昭32年度)「蜘蛛巣城」「どん底」,キネマ旬報賞主演男優賞(昭36年度 43年度)「用心棒」「黒部の太陽」,ベネチア国際映画祭男優賞〔昭和36年 40年〕「用心棒」「赤ひげ」,ベネチア国際映画祭フィプレシ賞(第28回)〔昭和42年〕「上意討ち」,芸術選奨文部大臣賞(昭42年度)〔昭和43年〕「上意討ち」,UCLAメダル〔昭和61年〕,ブルーリボン賞助演男優賞(昭62年度)「男はつらいよ・知床旅情」,フランス芸術文化勲章〔平成1年〕,勲三等瑞宝章〔平成5年〕,日本映画批評家賞功労賞〔平成5年〕,ゴールデンアロー賞(特別賞 第35回)〔平成10年〕

経歴
昭和22年東宝ニューフェイス第1期生として入社。同年「銀嶺の果て」でデビュー。23年黒沢明監督「酔いどれ天使」で注目を浴び、以来黒沢作品のほとんどに出演。代表作に「野良犬」「羅生門」「七人の侍」「生きものの記録」「蜘蛛巣城」「どん底」「用心棒」「椿三十郎」「赤ひげ」などがあり、世界にその名を知られる。他の主要作品に「宮本武蔵」「無法松の一生」「侍」「上意討ち」「風林火山」「千利休・本覚坊遺文」などがあり、また外国映画「グラン・プリ」「太平洋の地獄」「レッド・サン」「将軍」にも出演。芸風は男性的で豪放。37年三船プロダクションを設立、タレントのマネジメント、映画自主製作を行った。主なプロデュース作品に「上意討ち」(東宝)、「黒部の太陽」(日活)、「風林火山」「新選組」(東宝)、「大忠臣蔵」(NET)等。テレビやCM出演も多数。

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百科事典マイペディア 「三船敏郎」の意味・わかりやすい解説

三船敏郎【みふねとしろう】

映画俳優。青島(チンタオ)生れ。1946年第1期東宝ニューフェースに合格し入社。翌1947年谷口千吉監督《銀嶺の果て》でデビュー。黒澤明の《酔いどれ天使》(1948年)のギャング役で認められ,以後《羅生門》(1950年),《隠し砦の三悪人》(1958年),《用心棒》(1961年),《赤ひげ》(1965年)など,黒澤作品に欠かせない俳優として活躍。1962年三船プロを設立し,熊井啓監督《黒部の太陽》(1968年)などの製作も手がけた。他の作品に稲垣浩監督《宮本武蔵》(1954年),同《無法松の一生》(1958年),熊井啓監督《千利休 本覚坊遺文》(1989年),同《深い河》(1995年)などがある。
→関連項目ブロンソンベネチア国際映画祭

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三船敏郎」の意味・わかりやすい解説

三船敏郎
みふねとしろう

[生]1920.4.1. 山東,青島
[没]1997.12.24. 東京,三鷹
映画俳優,制作者,監督。大連中学卒業。 1946年東宝に入社,翌年『銀嶺の果て』でデビュー。以後大胆な演技で人気をあげ『新馬鹿時代』 (1947) ,『酔いどれ天使』 (48) などに出演。 51年ベネチア国際映画祭サン・マルコ金獅子賞受賞作品『羅生門』 (50) に主演して世界的に有名となる。 62年には三船プロダクションを創立,石原プロとの共作『黒部の太陽』 (68) ,『風林火山』 (69) などの大作を発表して成功し,スタープロブームの一翼をになった。 71年にはフランス映画『レッド・サン』に出演。また,テレビ映画にも活躍。他の主要作品『生きものの記録』 (55) ,『無法松の一生』 (58) ,『天国と地獄』 (63) ,『赤ひげ』 (65) ,『上意討ち』 (67) 。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「三船敏郎」の解説

三船敏郎 みふね-としろう

1920-1997 昭和後期-平成時代の映画俳優。
大正9年4月1日中国青島(チンタオ)生まれ。昭和21年東宝第1期ニューフェースで入社,翌年「銀嶺の果て」でデビュー。23年黒沢明監督の「酔いどれ天使」に主演,以後「羅生門」「七人の侍」など黒沢作品に連続出演。37年三船プロを設立。「レッド・サン」「将軍」などの外国映画にも出演した。平成9年12月24日死去。77歳。平成27年ハリウッドの映画部門の殿堂入り。大連中学卒。

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367日誕生日大事典 「三船敏郎」の解説

三船 敏郎 (みふね としろう)

生年月日:1920年4月1日
昭和時代;平成時代の映画俳優。三船プロダクション社長
1997年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の三船敏郎の言及

【隠し砦の三悪人】より

…1958年製作の黒沢明監督の初のシネマスコープ作品。戦国時代,男に変装した姫君(上原美佐)を護衛して,忠臣の武将(三船敏郎)が,金に目のくらんだ愚かな2人の百姓(千秋実と藤原釜足)をうまく味方につけて,少数のゲリラ部隊のように敵中突破するという,日本映画には稀有(けう)なスケールの大きい骨太の大活劇。〈三悪人〉は,黒沢明の敬愛するジョン・フォード監督のサイレント時代の西部劇の名作の一本《三悪人》を想起させるし,〈敵中突破〉のテーマは,黒沢明がそれ以前に書いていたシナリオ《敵中横断三百里》(1957年,森一生監督によって映画化された)につながる。…

【活劇映画】より

やくざ映画
[活劇の隆盛]
 1950年代から60年代にかけては活劇が隆盛となり,各社で数多くの活劇スターが生まれた。東宝では《暗黒街》シリーズ(1950‐60)の三船敏郎と鶴田浩二,青春スポーツ活劇《若大将》シリーズ(1961‐71)の加山雄三,《国際秘密警察》シリーズ(1963‐66)の三橋達也,《独立愚連隊》シリーズ(1960‐63)の佐藤允。大映では《悪名》(1961‐69),《兵隊やくざ》(1965‐68)両シリーズの勝新太郎,《陸軍中野学校》シリーズ(1966‐68)や《ある殺し屋》(1967)の市川雷蔵,《黒の試走車》(1962),《宿無し犬》(1964)の田宮二郎。…

【黒沢明】より

…数人のシナリオライター(小国英雄,菊島隆三,橋本忍らに本人みずからも参加)に同一のシーンを別々に書かせて最高のでき上りのものを採用していくという独特の共同作業によるシナリオづくりも注目された。《酔いどれ天使》から《赤ひげ》(1965)に至る〈黒沢一家〉の中心スター・三船敏郎を育て,〈世界のミフネ〉たらしめた功績もある。アメリカ資本による《暴走機関車》《トラ!トラ!トラ!》の映画化は実現せず,黒沢プロダクション解散のあと,69年,木下恵介,市川崑,小林正樹とともに〈四騎の会〉を結成,その第1回製作《どですかでん》(1970)を初のカラー作品として撮る。…

【日本映画】より

…戦後のスター・プロには次のようなものがある。(1)長谷川一夫(1948‐52)(2)鶴田浩二(1952‐53)(3)山村聡(1952‐65)(4)岸恵子,久我美子,有馬稲子の〈にんじんくらぶ〉(1954‐66)(5)三船敏郎(1962‐ 。東京世田谷成城)(6)石原裕次郎(1963‐ )(7)三国連太郎(1963‐65)(8)勝新太郎(1967‐ )(9)中村錦之助(のち萬屋錦之介)(1968‐ )
【時代劇と現代劇】

[サイレント映画の頂点――時代劇の全盛時代]
 日本映画は1920年代後半,量産時代に入り,年間650本ほどの作品がつくられるようになった。…

【酔いどれ天使】より

…戦後の貧しい青春を描いた《素晴らしき日曜日》(1947)につづいて,脚本は植草圭之助とのコンビによっている。戦後社会の一つの象徴的産物である闇市にのさばるやくざたちを取りあげ,中年を過ぎた酔いどれの医師(志村喬)と結核を病むやくざの青年(三船敏郎)との交流を描きながら,やくざの世界の至高の道徳律であり誇りである〈仁義〉の虚偽とむなしさを痛烈にあばきつつ,日本の戦後社会の世相と精神構造,その動揺と混乱を的確かつ鮮烈にとらえた作品であった。映画音楽を〈対位法〉的にとらえた作曲家早坂文雄(1914‐55)とのコンビ第1作であり,1946年の東宝ニュー・フェイス三船敏郎(1920‐97)とのコンビのスタートとなった作品でもある。…

※「三船敏郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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