上条村
じようじようむら
[現在地名]加茂市上条・八幡一―三丁目・皆川・神明町一―二丁目・青海町一―二丁目・千刈一―三丁目・陣ヶ峰・赤谷・学校町・都ヶ丘・五番町・新町一―二丁目・若宮町一―二丁目・秋房
村域は、南は加茂川中流左岸から北西の下流右岸一帯に広がり、下流左岸は加茂町村、上流は狭口村に続く。建武三年(一三三六)一一月一日の足利尊氏御教書写(金沢市立図書館蔵)に「越後国青海庄内上条本村」とみえる。次いで、文和四年(一三五五)四月二九日の羽黒義成軍忠状(三浦和田羽黒氏文書)には「今月二日青海庄賀茂口於陣峰、致散々合戦追落畢」とあり、村域西端の陣ヶ峰が戦場となっている。文禄四年(一五九五)の検地帳(新発田市立図書館蔵)は「賀茂上条村」と記し、田畠屋敷とも三六町八反余で分米三八四石七斗余。同帳には新たに課税対象地となったとされるはんてうめん・せきめん・ふくしまめんや、町場の存在をうかがわせる「さくらまち」など一三〇余の地字が記載される。うち、かはら田・ふたい・もりのこし・とゝろき・へんけい・しまめくり・たてのこし・ミち下は、それぞれ土地更正図にある河原田・舞台・森ノ腰・轟・弁慶・嶋廻・館ノ腰・道下にあたると思われる。
上条村
じようじようむら
[現在地名]大門町上条
古川新村の南、大門川(庄川)の右岸に位置し、南方に小泉・東広上と西広上(現高岡市)、北東方に島・下条の各村がある。地名上条は下条とともに古代の条里に由来するといわれるがつまびらかでない。当村を含めた前記の村々は近世に浅井郷とよばれたが、浅井は文永七年(一二七〇)三月二四日の秦守高注進状(秦文書)に「越中国
野・ひろかミ・あさいの後米つき候し」とみえ、翌八年一二月二五日の秦守高注進状(同文書)には「安賀大上座ノ御方と申人ゑ中国
野・広神・アサエ・御いの庄御米ヲツミテ、田烏エつけ候いし」とあって、浅井や広上などの米が海路、若狭田烏浦(現福井県小浜市)に運ばれている。
上条村
じようじようむら
[現在地名]三島町上条
西は標高二〇〇メートル以上の丘陵が南西から北東に延び、東・南ともに一五〇メートル以上の丘陵地。南西から流下する小木城川左岸谷間に村が開け、北の丘陵から流下する逆谷川が村内で合流する。東西に長岡、出雲崎(現出雲崎町)を結ぶ県道が通る。東は気比ノ宮、北は逆谷、南西は中永の各村、北西は剣峰峠を境に現出雲崎町。剣峰峠は近世前から出雲崎方面とこの地域を結ぶ軍事的・商業的にも交通の要所と伝え、当地はその要地に当たる。
上条村
かみじようむら
[現在地名]山ノ内町大字平穏
東は湯田中村、南は夜間瀬川を隔てて佐野村に、西より北にかけては夜間瀬本郷と横倉村に接している。地形は東部に山地をひかえた洪積世堆積地と夜間瀬川扇状地よりなる平坦地である。
「吾妻鏡」の文治二年(一一八六)三月一二日条にみえる笠原牧北条のうちで、南北朝時代初めに足利尊氏にくみして活躍した高梨経頼以来、同家との関係の深い所である。
上条村
じようじようむら
[現在地名]阿見町上条
北西は若栗村、北東は清明川を隔てて追原村。中世は信太庄に属し、永禄八年(一五六五)四月二四日の土岐治英裁許状(小松沢家文書)に「上条与乙原之郷野之境之事」とある。信太庄は当村から西を上条と称したらしい。また若栗村との境に上杉氏の被官大越氏の居館とされる寄井館跡、北東部の台地上に大越氏の城とも江戸崎監物の城とも伝えられる上条城跡がある。
江戸初期に内藤氏の所領となるが、延宝八年(一六八〇)忠勝が改易になると、牧野成貞に与えられ、元禄一〇年(一六九七)からの地方直しで旗本上杉義陳の知行地となり、元禄郷帳の村高は四二五石余。天保一〇年(一八三九)に領主上杉左近が不正で訴えられた大庄屋を役儀取上処分にし、それを不満とする百姓たちが老中・勘定奉行・大目付などに直訴する騒動が起こった。
上条村
かみじようむら
[現在地名]信州新町上条
犀川北岸の段丘上の村。西は山上条村と、北及び東は水内村と境し、南は犀川に臨む。
村名の初見は、慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳に、「百七拾弐石六斗九升八合 上条村」とある。元禄の松城領高辻帳の添目録(大日方文書)に、上条村の枝村として宮村・中尾村・窪村・藤内村・矢尻村・二本木村の六ヵ所を記していて、いずれも元禄以前起立の村である。多くは香坂氏居館跡の周辺にある。村の中央の上条は縄文時代の遺跡地で、同所はこの地を領した香坂氏が居館(御屋敷という)を構えた所でもある。
上条村
じようじようむら
[現在地名]長岡市上条町・豊田町・笹崎三丁目
長岡町の南方約二キロの平地にあり、西は宮内村、北は土合村、東は大町村・青木高畑村などに通じる道がある。南にある春日神社を本丸跡とする上条城は、守護上杉憲顕入国当時の貞治三年(一三六四)に築かれたと伝え、当地周辺の大町・曲方・新町は同城の城下町という。天正村名考(温古之栞)に「上条百三軒」とあり、集落の規模は大きい。慶長二年(一五九七)の当村内蔵王権現領分の検地帳写(安禅寺文書)では本途七石五斗・見出六石四斗、名請人は中使蔵人を含めて上条村に五人、長倉村に二人。
上条村
じようじようむら
[現在地名]安城市上条町
西鹿乗川が東を流れ、東は小望村(現岡崎市)、南・西は安城村に隣する。長田川と半場川の開析谷に面した台地の端に上条遺跡(弥生中期)がある。「兵範記」仁安元年(一一六六)九月二七日条に「参河志貴御庄下条可知行由、大納言殿以安芸守能盛示給」とあり、仁安元年から平信範が志貴庄下条を知行することになるが、この下条は上条に対しての地名と考えられる。
藩政期の支配は、初め一部が白山社領、他は間宮信繁領。
上条村
かみじようむら
[現在地名]富士宮市上条
北山村の西、下条村の北、潤井川上流域の丘陵地に立地し、西境を芝川が南流する。貞和五年(一三四九)四月一三日に書写された「立正安国論」の奥書(北山本門寺蔵)に、「富士上方上野郷水口」において日源が書写したとみえる。水口は地内字水ノ口の地に比定され、上野郷上条・下条・馬見塚ほかの灌漑用水として芝川から取水した用水(現在の大堰用水)の取水口をいったものと思われる。
上条村
じようじようむら
[現在地名]春日井市上条町
下条村の北にあり、東を庄内川が流れる。「蔭涼軒日録」長享元年(一四八七)の条に「柏井上下条」とある。柏井庄といわれた頃荘域を南北に二分して、条里一七条以南を下条、一六条以北を上条としたと推定される。村の北方にお茶漬山という大塚があり、これを中心に台地の縁端部には鳥居松古墳群がある。
寺中・御油など七島に分れていた。寺中は南の泰岳寺、北の大光寺の間にある島で、大光寺の寺中(伽藍・子房・寺男その関係者の居住地)の遺名という。
上条村
じようじようむら
[現在地名]清洲町上条・新清洲
土田村の南にある。寛文一一年(一六七一)には家数五七、男一一七人・女一二〇人(寛文覚書)。「徇行記」によれば、田は四六町九反八畝余、畑は二五町四反四畝余で、概高五八一石余のほとんどが藩士一三人の給知。耕田が戸口に対して不足し、今宿村(現海部郡甚目寺町)・土田村の田畝を承佃した。
上条村
かみじようむら
[現在地名]御薗村上条
宮川河口の小林に隣して右岸にある。近世は山田奉行支配の幕府直轄地。慶安郷帳(明大刑博蔵)には「上条両村」とあり、上条と向上条である。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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