上津村(読み)かみづむら

日本歴史地名大系 「上津村」の解説

上津村
かみづむら

[現在地名]月夜野町上津

月夜野町の南西に位置し、村の北端利根川の支流赤谷あかや川が流れる。江戸初期には南の下津村とともに名胡桃なぐるみ村といい、古代の呉桃なくるみ(和名抄)の遺称地とみられる。応永二七年(一四二〇)六月八日の長尾憲明遵行状写(相州文書)によると「奈久留見村参分弐方内滝安名」は鎌倉建長寺宝珠庵領であるが、発智氏に押領されている。室町後期から戦国期には沼田氏の一族名胡桃氏の居城名胡桃城が下津に築かれていた。永禄三年(一五六〇)上杉謙信の上野制圧後は上杉氏の支配下に入り、同九年一〇月一三日の上杉輝虎(謙信)書状(北条文書)に「黒岩・なくるみ之地下人相調、両地堅固之由」とある。武田氏の勢力が当地に伸張した天正七年(一五七九)には「なくるミ村同寄居」が小中彦兵衛尉に宛行われており(同年一二月二六日「武田家朱印状」同文書)、同八年には小川可遊斎が「名胡桃三百貫之所」を所望、先に宛行われていた人物がいたが、たっての所望であれば改替のうえ可遊斎に宛行う旨の武田家定書(吉川金蔵氏所蔵文書)が七月一日付で出されている。同年九月には「名胡桃五拾貫文之所」が金井外記に宛行われた(武田家定書写「長国寺殿御事蹟稿」所収)


上津村
かみつむら

[現在地名]賀陽町上竹かみたけ

有納ありのう村の西にあり、高梁たかはし・旭川両水系の分水嶺に位置。宇甘うかい川と佐与谷さよだに川の流域に広がる。俵原たわらばら中日名なかひな加門かもん大村おおむら猿目さるめなどの集落が散在する。寛元三年(一二四五)一〇月、某御前と口寿御前に、それぞれ上津村の内にあった畠無図二反三五代一八歩の地が譲られている(「賀陽氏某譲状」吉備津神社文書)正保郷帳に村名はみえないが、竹庄たけのしよう村南部の中心を占めていたと思われる。


上津村
こうづむら

[現在地名]木津町大字木津 みやうらみやほり白口しらぐち東小林ひがしこばやし今城いましろ内田山うちだやま片山かたやま

東は丘陵、西はえだ村・大路おおじ村・南川みなみかわ村・千童子せんどうじ村。集落は木津川南岸微高地に通称上津、その東の丘陵端に通称とうげ灯籠寺とうろうじはた・片山が北から南に散在する。木津郷の東半部にあたる。延宝七年(一六七九)頃には幕府領で藤村長兵衛代官所支配、本百姓は二一人であった(「梅谷新田開発記」駒喜多家文書)


上津村
じようづむら

[現在地名]福野町上津

小矢部おやべ川とたび川の合流点南側に位置し、南は柴田屋しばたや村。口碑によると、小矢部川の津として運送の便があり、そのなかでも上流に位置したのが村名の由来と伝える。元和五年(一六一九)の家高新帳では役家数四。正保郷帳では高二二一石余、田方一三町七反余・畑方一町。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高二五七石、免五ツ五歩、小物成は野役四一匁、猟船櫂役一〇匁(退転)であった(三箇国高物成帳)。寛保二年(一七四二)の川崩検地引高五六石余などにより天保一〇年(一八三九)の高一七五石余(「高物成帳」菊池家文書)


上津村
こうづむら

有馬ありま上津畑こうづはた庄にあったとみられる中世の村。多田神社文書によると正和五年(一三一六)一〇月一三日、川辺かわべ多田ただ(現川西市多田神社)で堂塔供養が行われた時の指図に「上津村」とみえ、当村の御家人が警固の座に列席している。康安元年(一三六一)一〇月二五日の藤井氏女田地寄進状によれば、塩川氏の後室藤井氏が「上津村さかのすそ」の田一段を多田院に寄進、応安元年(一三六八)四月八日には上津村の御家人左藤三入道馬一疋分の代銭一貫文が多田院へ寄進されている(金堂供養御家人引馬注文)


上津村
うわづむら

[現在地名]高浜町上津

関屋せきや村の西方に位置し、西は丹後国加佐かさ(現京都府舞鶴市)に接する。「若狭郡県志」に「上津村属青郷、去小浜七里半許也」とあり、正保郷帳によれば田方六石余・畠方二石余の小村。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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