上滝村(読み)かみだきむら

日本歴史地名大系 「上滝村」の解説

上滝村
かみだきむら

[現在地名]大山町上滝・上野うわの

常願寺川左岸の扇状地扇頂部にあり、南部は常願寺川河岸段丘の大川寺だいせんじ丘陵がある。「日本洞上聯灯録」によれば、永享(一四二九―四一)頃月江応雲が「上滝郡将に招かる」とある。地名は字義のとおり上手の滝の意と思われ、丘陵崖からの滝は平素は目立たないが、大雨や長雨の後は崖一面に流れ落ちる大滝となったのであろう。南西隣に中滝村がある。正保郷帳の高二〇九石余、田方一三町四反余・畑方五反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高二二四石、免四ツ四歩、小物成は山役五〇匁・鮎川役九匁、鱒役一匁(出来)とある(三箇国高物成帳)。天保一一年(一八四〇)の高免帳(杉木家文書)によれば、元禄四年(一六九一)川崩れによる六一石の減石があり、享保八年(一七二三)二石、天保九年一〇石の増石があり、草高一七五石。戸口の変遷は元和元年(一六一五)五戸、万治二年(一六五九)六戸で、この六軒を村の起源としてのちに六間ろつけん町の町名となった(大山町史)。天明五年(一七八五)の上滝村鑑(酒井家文書)によれば家数一六(うち百姓一三・頭振三)、男四八・女三七。


上滝村
かみたきむら

[現在地名]黒羽町北滝きたたき

南流する那珂川左岸にあり、北は八塩やしお村、南は下滝しもたき村。北を日暮ひぐれ沢、南をやなぎ沢が西流し那珂川に合流する。天正一九年(一五九一)の那須与一郎資景知行目録(那須文書)では「たき村」とみえ、三九〇石一斗七升、一二三石七升の二筆があるが、当村および下滝村をさすかは不明。近世は初め那須藩領。慶安郷帳では田一九三石余・畑六四石余で那須氏領。元禄元年(一六八八)旗本上野領となる。天保年中(一八三〇―四四)の改革組合村では下滝村とともに滝村と一括され、幕府領で家数五〇。同一四年の将軍家慶日光社参の折には日光街道今市宿の当分助郷を命じられ、勤高は三〇〇石(「今市宿当分助郷帳」森良持文書)


上滝村
わたきむら

[現在地名]武雄市朝日町あさひまち甘久あまぐ

現武雄市の東部に位置し、現杵島きしま郡北方町に接している。「肥前風土記」にみえる盤田杵いわたき村がこの地と推定される。

天保郷帳には上滝村が二つあり、一つの上滝村は四三八石、もう一つのほうは七七六石となっている。石高の少ないほうが現在の朝日町甘久字北上滝、多いほうが同字南上滝であろうと思われる。正保絵図には上滝村は一つで石高三五七石となっている。

村の東の田圃中に微高地があり、弥生時代の遺物の散布地である。北西部の猪隈いのくま山東麓、現北方町との境にある朝日ダム付近には弥生中期の甕棺墓群集遺跡(北上滝遺跡)がある。


上滝村
かみたきむら

[現在地名]山南町上滝

南は阿草あくさ村、北は上小倉かみおぐら(現柏原町)、東は多紀たき荒子新田あらこしんでん(現篠山市)。慶長三年(一五九八)織田信包(柏原藩)領となる。正保郷帳に村名がみえ田高三〇四石余・畠高三六石余、柴山あり、日損少しあり。柏原藩領。慶安三年(一六五〇)幕府領となり、国立史料館本元禄郷帳では旗本安藤・同水谷の入組地。


上滝村
かみたきむら

[現在地名]高崎市上滝町

東南流する利根川井野いの川に挟まれる沖積平野にある。東は天狗岩てんぐいわ用水を境に宿横手しゆくよこて村、南は下滝村、西南に滝村があり、東南は滝新田たきしんでん村。現高崎市立高南中学校の南方には小円墳群が現存し、井野川左岸に近い所では土師式土器の散布もみられる。群馬郡に属する。天狗岩用水が開かれて以後の慶長一〇年(一六〇五)前後開発された村で(正徳年間「植野堰最初掘立御普請書」武井文書)、「寛文朱印留」に村名がみえ前橋藩領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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