出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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上野理一
うえのりいち
(1848―1920)
新聞経営者。丹波篠山(たんばささやま)(兵庫県)の両替商の子に生まれる。兵庫県川辺(かわべ)郡書記などを経て、1881年(明治14)大阪朝日新聞社の経営に参画。以後、村山龍平(りょうへい)と共同経営にあたる。1908年(明治41)合資会社に改組してからは、村山と交代で社長と監査役を務めた。村山とは、経営政策上対立したこともあったが、基本的には長短補い合い、朝日新聞社を全国的な大新聞社に発展させた。
[有山輝雄]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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上野理一 (うえのりいち)
生没年:1848-1919(嘉永1-大正8)
明治・大正期の新聞経営者。号は有竹。丹波国篠山に生まれる。1870年(明治3)大阪に出て,兵庫県川辺郡書記などを経て80年《朝日新聞》に入社。翌81年より村山竜平と共同出資して経営に参加,当時不振に陥っていた《大阪朝日新聞》を立て直し,同紙と《東京朝日新聞》の発展を経営面で指導した。1908年社長に就任,以後村山と1年交代で社長を務めたが,18年におきた〈白虹事件(はつこうじけん)〉の際には,村山に代わって社長となり事件の収拾にあたった。
執筆者:佐々木 隆
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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上野理一 うえの-りいち
1848-1919 明治-大正時代の新聞経営者。
嘉永(かえい)元年10月3日生まれ。兵庫県川辺郡書記などをへて,明治13年朝日新聞社にはいる。翌年から共同出資者として経営に参加。東京朝日新聞と合併した41年から大正8年まで,村山竜平(りょうへい)と1年交代で社長をつとめた。茶人としても知られた。大正8年12月31日死去。72歳。丹波篠山(ささやま)(兵庫県)出身。号は有竹。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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上野理一
うえのりいち
1848.10.3~1919.12.31
現在の朝日新聞社の基礎を築いた新聞経営者。丹波国篠山(ささやま)藩の藩士の家に生まれる。製茶業・大阪鎮台司令官執事などをへて,1881年(明治14)朝日新聞に出資したことを契機に,村山竜平と共同で同紙を所有・経営し,大阪の小新聞(こしんぶん)から全国紙にまで育てた。村山が積極拡大を推進したのに対し,上野は社内にあって実務的役割を担った。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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上野理一
うえのりいち
[生]嘉永1(1848).10.3. 丹波,篠山
[没]1919.12.31. 大阪
朝日新聞社の初期の経営者。 1880年『朝日新聞』 (前年創刊) に入社。 81年からは出資金総額の3分の1を負担。残りを負担した村山龍平の片腕として,『朝日新聞』の発展に多大の功績があった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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上野 理一 (うえの りいち)
生年月日:1848年10月3日
明治時代;大正時代の新聞経営者。朝日新聞社社長
1919年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の上野理一の言及
【朝日新聞】より
…1879年1月25日,木村平八・騰親子の出資と発意により[村山竜平]を〈持主〉として大阪で創刊。経営権は81年に村山と[上野理一]の手に移った。当初は小説と通俗記事を主体とした小新聞(こしんぶん)だったが,しだいに報道主義的新聞の性格を強め,議会開設期から日清戦争前後にかけて報道の正確,迅速さで部数を伸ばした。…
※「上野理一」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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