上野理一(読み)うえの・りいち

朝日日本歴史人物事典 「上野理一」の解説

上野理一

没年:大正8.12.31(1919)
生年嘉永1.10.3(1848.10.29)
明治大正時代の新聞経営者。号は有竹丹波(兵庫県)篠山西町に,丹波青山藩御用達の両替商上野保兵衛と兼子の長男として生まれる。明治2(1869)年の農民暴動で生家が没落,父が急逝したのち,5年ごろに神戸に出て茶の貿易に従事し,8年大阪鎮台司令官三好重臣の執事となる。13年,兵庫県川辺郡上席書記となるが,同年,細見貞の紹介で朝日新聞社入社した。翌14年,共同出資者として経営参画,以来村山竜平と共に東京・大阪両朝日新聞発展させた。41年,東京・大阪の両朝日新聞社を合併し,朝日新聞合資会社とし,これ以降は村山と1年交代社長となった。大正7(1918)年のいわゆる白虹事件では,病気静養中であったが,村山に代わって社長となり,原敬首相と会談するなどして事態の収拾に当たった。8年,朝日新聞社の株式会社化を機に役員から退いた。<参考文献>朝日新聞社史編修室『上野理一伝』,朝日新聞百年史編修委員会『朝日新聞社史』明治編,大正・昭和戦前編

(井川充雄)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「上野理一」の意味・わかりやすい解説

上野理一
うえのりいち
(1848―1920)

新聞経営者。丹波篠山(たんばささやま)(兵庫県)の両替商の子に生まれる。兵庫県川辺(かわべ)郡書記などを経て、1881年(明治14)大阪朝日新聞社の経営に参画。以後、村山龍平(りょうへい)と共同経営にあたる。1908年(明治41)合資会社に改組してからは、村山と交代で社長と監査役を務めた。村山とは、経営政策上対立したこともあったが、基本的には長短補い合い、朝日新聞社を全国的な大新聞社に発展させた。

[有山輝雄]

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改訂新版 世界大百科事典 「上野理一」の意味・わかりやすい解説

上野理一 (うえのりいち)
生没年:1848-1919(嘉永1-大正8)

明治・大正期の新聞経営者。号は有竹。丹波国篠山に生まれる。1870年(明治3)大阪に出て,兵庫県川辺郡書記などを経て80年《朝日新聞》に入社。翌81年より村山竜平と共同出資して経営に参加,当時不振に陥っていた《大阪朝日新聞》を立て直し,同紙と《東京朝日新聞》の発展を経営面で指導した。1908年社長に就任,以後村山と1年交代で社長を務めたが,18年におきた〈白虹事件(はつこうじけん)〉の際には,村山に代わって社長となり事件の収拾にあたった。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「上野理一」の解説

上野理一 うえの-りいち

1848-1919 明治-大正時代の新聞経営者。
嘉永(かえい)元年10月3日生まれ。兵庫県川辺郡書記などをへて,明治13年朝日新聞社にはいる。翌年から共同出資者として経営に参加。東京朝日新聞と合併した41年から大正8年まで,村山竜平(りょうへい)と1年交代で社長をつとめた。茶人としても知られた。大正8年12月31日死去。72歳。丹波篠山(ささやま)(兵庫県)出身。号は有竹。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「上野理一」の解説

上野理一
うえのりいち

1848.10.3~1919.12.31

現在の朝日新聞社の基礎を築いた新聞経営者。丹波国篠山(ささやま)藩の藩士の家に生まれる。製茶業・大阪鎮台司令官執事などをへて,1881年(明治14)朝日新聞に出資したことを契機に,村山竜平と共同で同紙を所有・経営し,大阪の小新聞(こしんぶん)から全国紙にまで育てた。村山が積極拡大を推進したのに対し,上野は社内にあって実務的役割を担った。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「上野理一」の意味・わかりやすい解説

上野理一
うえのりいち

[生]嘉永1(1848).10.3. 丹波,篠山
[没]1919.12.31. 大阪
朝日新聞社の初期の経営者。 1880年『朝日新聞』 (前年創刊) に入社。 81年からは出資金総額の3分の1を負担。残りを負担した村山龍平の片腕として,『朝日新聞』の発展に多大の功績があった。

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世界大百科事典(旧版)内の上野理一の言及

【朝日新聞】より

…1879年1月25日,木村平八・騰親子の出資と発意により村山竜平を〈持主〉として大阪で創刊。経営権は81年に村山と上野理一の手に移った。当初は小説と通俗記事を主体とした小新聞(こしんぶん)だったが,しだいに報道主義的新聞の性格を強め,議会開設期から日清戦争前後にかけて報道の正確,迅速さで部数を伸ばした。…

※「上野理一」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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