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狩野芳崖 かのう ほうがい

美術人名辞典の解説

狩野芳崖

幕末・明治日本画家。山口県生。名は幸太郎。狩野勝川院の門に入り、橋本雅邦と並び称された。西洋画の写実技法や明暗法を取り入れ、日本画の新しい方向を求めた。また東美校の設立にも尽力した。明治21年(1888)歿、61才。

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

狩野芳崖

(1828~88)今の山口県下関市に生まれ、江戸で狩野派一門に学ぶ。1882(明治15)年にフェノロサと出会い、彼の影響で西洋顔料を用いるなど、西洋画の手法を取り入れ日本画を描いた。東京美術学校の設立に尽くすが、開校直前に「悲母観音」を残し死去。

(2008-12-03 朝日新聞 夕刊 2総合)

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デジタル大辞泉の解説

かのう‐ほうがい〔‐ハウガイ〕【狩野芳崖】

[1828~1888]日本画家。山口の生まれ。幼名、幸太郎。別号、松隣・勝海など。狩野雅信に学び、狩野派の伝統を受け継ぎ、明治初期、フェノロサに見いだされ、日本画革新運動の強力な推進者となった。東京美術学校創立に尽力。絶筆「悲母観音」は近代日本画の代表作

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百科事典マイペディアの解説

狩野芳崖【かのうほうがい】

明治初期の日本画家。本名幸太郎。長州豊浦藩の絵師の家に生まれる。上京して狩野勝川に学び,橋本雅邦と並び称された。明治初期の伝統芸術が顧みられなかった時期には生活にも困ったが,フェノロサ岡倉天心に認められて,日本画革新の運動に参加,東京美術学校の創立に参加したが,開校をみずに没。
→関連項目下村観山山口県立美術館

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

狩野芳崖 かのう-ほうがい

1828-1888 幕末-明治時代の日本画家。
文政11年1月13日生まれ。弘化(こうか)3年江戸にでて狩野養信(おさのぶ),狩野雅信(ただのぶ)に師事。明治17年フェノロサの主宰する鑑画会に参加。以後,フェノロサや岡倉天心と協力して日本画の近代化運動に力をそそいだ。東京美術学校(現東京芸大)の設立にも尽力。明治21年11月5日死去。61歳。長門(ながと)(山口県)出身。名は延信。字(あざな)は貫甫。別号に皐隣,松隣。作品に「悲母観音」「不動明王」など。

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朝日日本歴史人物事典の解説

狩野芳崖

没年:明治21.11.5(1888)
生年:文政11.1.13(1828.2.27)
明治期の日本画家。長門国長府藩印内(山口県下関市)に,同藩御用絵師狩野晴皐の長男として生まれる。本名幸太郎,のち延信,雅道。別号松隣,皐隣,勝海など。初め父に画技を学び,同家の菩提寺覚苑寺の霖竜和尚に参禅,大きな精神的感化を受ける。のちに「芳崖」の画号のもとになった「禅の極致は法に入りて法の外に出ること(法外)」という言葉も,霖竜から与えられたものという。弘化3(1846)年江戸に出て,木挽町狩野家の狩野晴川院養信に入門。養信がすぐに没したため,狩野勝川院雅信に学ぶ。生涯の友橋本雅邦とは,同日の入門であった。嘉永2(1849)年ごろ,師の号より1字を受けて勝海と号し,翌年ごろ塾頭となる。同5年ごろには師の名から一字を得て雅道と号し独立。長府藩の御用絵師となる。万延1(1860)年,江戸城本丸再建に際し大広間天井画を揮毫。しかし幕末は国事に奔走し,馬関海峡の測量図などを描く。明治維新後失禄,明治10(1877)年上京後も精工社で輸出用陶器の下図を描いたりしたが,12年ごろ「犬追物図」制作のため島津家雇となる。15年にはアーネスト・フェノロサの知遇を得,17年フェノロサが組織した鑑画会に参加。翌18年第1回鑑画会大会で「伏竜羅漢図」が3等賞,19年同第2回「二王ノ図(仁王捉鬼図)」(個人蔵)が1等賞を受賞し,同会の中心作家としてフェノロサと二人三脚で日本画の近代化を進める。 代表作は,この晩年の数年間に集中しており,ここにいたって,狩野派,室町水墨画,維新後の明清画研究に,遠近法や西洋的色彩などの西洋絵画研究が加えられ,それらが集大成された。「不動明王図」「岩石図」「暁霧山水図」(いずれも東京芸大蔵)のほか,絶作「悲母観音図」(東京芸大蔵)は,日本画近代化の第一段階における記念碑的作品ともなっている。フェノロサ,ビゲローらとの関係から,アメリカのボストン美術館,フィラデルフィア美術館,フリア美術館にも作品が収蔵されている。また明治17年図画調査会雇,19年図画取調掛雇,21年東京美術学校(東京芸大)雇となり,美術学校の設立に尽力したが,同校開校の3カ月前に急逝した。

(佐藤道信)

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世界大百科事典 第2版の解説

かのうほうがい【狩野芳崖】

1828‐88(文政11‐明治21)
幕末・明治初期の日本画家。下関に生まれ,幼名幸太郎。父は長府藩御用絵師狩野家の四代董信(ただのぶ)(松隣,晴皐)。父に師事し,13歳ごろより松隣,松林と号したが,19歳で江戸へ出,木挽町狩野家の勝川院雅信(ただのぶ)の門に入る。3年後には勝海雅道(ただみち)の称を許され,同年入門の橋本雅邦とともに竜虎とうたわれた。30歳で郷里へ帰り,雪舟,雪村らの作品に傾倒,そのころから芳崖を名乗るようになったが,明治維新後の社会的混乱,ことに廃藩置県後は禄を離れたことなどのため,生活に困窮し他業に転じるなど辛酸をなめた。

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大辞林 第三版の解説

かのうほうがい【狩野芳崖】

1828~1888) 日本画家。長門国の生まれ。江戸に出て狩野勝川に師事、橋本雅邦とともにその英才を謳うたわれる。従来の狩野派の筆法に西洋画の画法を取り入れ、フェノロサ・岡倉天心の日本画革新運動に加わり、新しい日本画の領域を開拓。東京美術学校創立の準備中病死。代表作「大鷲」「悲母観音像」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

狩野芳崖
かのうほうがい

[生]文政11(1828).1.13. 長府
[没]1888.11.5. 東京
日本画家。家は代々毛利家の御用絵師をつとめた。幼名幸太郎,のち松隣,延信と称し,皐隣,翠庵,貫甫,さらに文久1 (1861) 年頃から芳崖と号した。狩野派の絵師の父に手ほどきを受けたのち,弘化3 (46) 年江戸に出て木挽町狩野の勝川院雅信の門に入る。長く困窮生活を続けたが,1884年 E.フェノロサに認められ,第1回鑑画会に『伏竜羅漢図』 (85) ,第2回鑑画会に『仁王捉鬼』 (86) などを出品し,一躍画名を揚げた。狩野派の伝統を守りながらも,フェノロサ,岡倉天心らとともに新しい日本画の創造に情熱を傾けた。また東京美術学校の創立に尽しその教授に内定していたが,開校を目前にして没した。その他の主要作品『山水図屏風』 (68) ,『不動明王図』 (87,東京芸術大学) ,『悲母観音像』 (88,同) 。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

狩野芳崖
かのうほうがい
(1828―1888)

日本画家。文政(ぶんせい)11年1月13日、長門(ながと)国(山口県)長府藩の御用絵師狩野晴皐の長男として生まれる。幼名幸太郎。1846年(弘化3)江戸に出て狩野勝川院雅信に入門、たちまち頭角を現した。橋本雅邦(がほう)は同門。佐久間象山(しょうざん)にも学んで進取の気性に富み、狩野派の粉本主義に疑問を抱いて独創を試み、危うく破門されるということもあった。1855年(安政2)に帰郷、このころから芳崖と号した。1860年にふたたび江戸に出るが、やがて江戸払いとなって郷里に戻り、1871年(明治4)廃藩置県で禄(ろく)を失った。1877年に上京、陶器や漆器の下絵描(か)きなどに従事したが、貧窮を極めた。1884年、第2回内国絵画共進会に出品した『桜下勇駒図』『雪山暮渓』がフェノロサに認められ、フェノロサを介して岡倉天心とも親交を結び、鑑画会に加わって新しい日本画の創出に力を注ぐことになった。1886年の第2回鑑画会大会で一等賞を受賞した『不動明王図』(重要文化財)は、西洋の絵の具を用いた色調が鮮やかで、構図の斬新(ざんしん)さとともに、新しい表現を切り開く強い意志をうかがわせる。1885年に文部省図画取調掛雇となり、フェノロサや天心と力をあわせて東京美術学校の創設に努めた。1888年には同校の日本画科主任教授に内定したが、翌年の開校を待たず明治21年11月5日没した。死の直前に完成した『悲母観音』(重要文化財)は、近代日本画の代表作の一つとして名高い。[原田 実]
『河北倫明・高階秀爾他編『日本の名画1 狩野芳崖』(1976・中央公論社)』

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