中津原村(読み)なかつばるむら

日本歴史地名大系 「中津原村」の解説

中津原村
なかつばるむら

[現在地名]香春町中津原

高野たかの村の南に位置し、西流する御祓みそぎ川の中流域とその南の台地からなり、集落は台地上に分布する。仲津原とも書く。建久八年(一一九七)の豊前国図田帳写(到津文書/鎌倉遺文二)に「(中)津原弘井十町」がみえ、宇佐宮領であった。文明一七年(一四八五)七月日の宇佐公永譲状案(宮成文書/大分県史料二四)によれば、勾金まがりかね庄内の「中津原名々等」が宇佐大宮司の宇佐(宮成)公永の嫡子公保に譲与されている。永禄一〇年(一五六七)三月七日の大宮司宮成社恩地坪付(同上)からは、仲津原五六町九反余のうち岩丸いわまる名六町が筑前の千手氏に押領されたことが知られる。同年一二月、大友氏の宇佐宮支配のための社奉行奈多鑑基と対立していた宮成公建は、心乗坊公円らとともに自らの屋敷に放火して船で逃れようとしたが、風波悪く江島えしま(現大分県宇佐市)に逗留し、翌一一年一月に「田河郡領地」(中津原)に赴いている(「某覚書案」到津文書/大分県史料二四など)


中津原村
なかつはらむら

[現在地名]福山市御幸みゆき町中津原・横尾よこお

坂田さかた村の北に位置する。東流する芦田あしだ川は当地で南折し、しかも東方を南流してきた高屋たかや川を合わせるが、その両川に挟まれる狭長な地域に集落が形成される。芦田川の増水は下流の城下町を流失させるおそれがあり、水野氏の入国以来改修工事が進められ、蛇行していた川筋を南側の山麓に沿って府中(現府中市)から一直線にし、中津原で直角に曲折させ、しかもこの曲り角北岸の羽賀崎はがさきに砂土手の乗越堤をつくった。増水の節は砂土手を切って中津原に水を流し込んで水勢を緩め、下流の城下町を洪水から救う策である(福山志料)


中津原村
なかつはらむら

[現在地名]武生市中津原町

吉野瀬よしのせ川最上流部の狭長な谷底に位置し、上中津原ともよばれる。西の下中津原との間に枝村江上谷えがみだにがある。応永二九年(一四二二)七月二七日付霊忠中津原松林庵並山林田畑売券(少林寺文書)に「中津原村」とみえる。永享一二年(一四四〇)九月の中津原是禎契約条案(壬生家文書)に「越前国中津原村氷料米下地事、被止一方之又守護代狩野方非分違乱、(下略)」とあり、同年九月一四日付壬生晨照宛甲斐常治書状(同文書)に「中津原村預ケ所職事、如元無子細中津原右京亮入道是禎ニ被仰付候間、(下略)」とあるように、当村は壬生家領であり、在地の中津原是禎がその預所職を有した。


中津原村
なかつはらむら

[現在地名]千早赤阪村中津原

小吹こぶき村の東にあり、丘陵地から山地に位置する。字地の日出目ひづめは「河内志」にみえる「中津原属邑一」にあたるかという(大阪府全志)。天正一二年(一五八四)一一月の河内国御給人御蔵入之内より出米目録(中之島図書館蔵)に七二石「中津原」とみえ、右のうちより七二石出米と注記される。文禄二年(一五九三)の中津原村口山御検地帳(尾花家文書)によると貫高は二貫四六五文、うち六五文は上下堂山宮山分で差引かれるが、東坂あずまざか村・吉年よどし村など他村の人の所有がかなりあり、文政七年(一八二四)の中津原村山銭帳(谷家文書)でも同様で、古くから薪炭などの燃料供給地であったらしい。


中津原村
なかつはらむら

[現在地名]金山町中津原

大船渡おおふなと村の北、飛騨川東岸にある。「飛州志」所収の長慶山潮音ちようおん(廃寺)旧蔵慶長二年(一五九七)四月の古棟札銘に「中津原」とある。同一〇年五月二三日の実蔵坊飛騨檀那目録案(経聞坊文書)には「中つはら」とみえる。同年の飛騨国郷帳では麻生あそう郷に属し、高一一五石余、うち田五五石余・畑六〇石余、物成三五石余。同一八年の郷帳では高一一二石余。元禄検地反歩帳では下原しもはら郷に属し、高八三石余、田三町八反余・畑六町八反余。「飛騨国中案内」によれば免三割九分四厘余、家数四二、うち寺一・百姓三八・門屋一・地借り一・借屋一。上谷山に普請山、小中根山に家木山があった(元禄一五年「飛州御林山之改帳」徳川林政史研究所蔵)


中津原村
なかつはらむら

[現在地名]東伯町中津原

三本杉さんぼんすぎ村の南に位置する。拝領高は一一六石余、幕末の六郡郷村生高竈付によれば生高一五七石余、竈数一七。元治二年(一八六五)の八橋郡村々余業取調帳(河本家文書)では家数一七、うち余業五(蓑・綿商棒三、紙漉・飼博労各一)みやうえ大正たいしよう神社がある。


中津原村
なかつはらむら

[現在地名]揖斐川町若松わかまつ

伊尾野いびの村の北にあり、西は仁坂にさか村。南方みなみがた村の枝村であったが、承応二年(一六五三)に分村した(大和村誌)。延宝八年(一六八〇)の旗本岡田氏の知行村々高目録(富田文書)によれば本高六七石余のうち九石余が高不足で、有高五八石余。元禄郷帳でも高六七石余で同氏領。


中津原村
なかつはらむら

[現在地名]山北町中津原

勝木がつぎ川が村央を北西へ流れる。下流は上大鳥かみおおとり村。なか村で出羽街道から分岐した脇道が川沿いに通る。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「大川分中沢原村 下」とみえ、本納四石四斗七升・縄高三二石九升四合、家七軒とあり、川の左岸に描かれる。対岸には「中津原村之は大川分こい沢口村 下」があり、本納一石・縄高一〇石一斗九升五合、家二軒と記される。


中津原村
なかつはらむら

[現在地名]山中町中津原町

動橋いぶりはし川の上流左岸、四十九院しじゆうくいん川との間にある村で、村北西隅で両川が合流する。集落は南東のたき村と接続し、北・東・西の三方に耕地が広がり、南部は加越国境の山地に続く丘陵地である。正保郷帳によると高二八四石余、田方一三町九反余・畑方三町九反余、物成高一一五石余。「江沼志稿」でも村高に大きな変化はなく、免四ツ八歩。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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