日本大百科全書(ニッポニカ) 「久万」の意味・わかりやすい解説
久万
くま
愛媛県中央部、上浮穴郡(かみうけなぐん)にあった旧町名(久万町(ちょう))。現在は久万高原町(くまこうげんちょう)の西部を占める一地域。1901年(明治34)久万町(くままち)村が町制施行して久万町となり、1924年(大正13)菅生(すごう)村、1943年(昭和18)明神(みょうじん)村、1959年(昭和34)川瀬、父二峰(ふじみね)の2村を合併、2004年(平成16)面河(おもご)、美川(みかわ)、柳谷(やなだに)の3村と合併、久万高原町となる。旧久万町域は、四国山地西部の久万高原に位置し、仁淀(によど)川の支流久万川上流域を占め、国道33号(土佐街道)、380号が通じる。室町時代から久万山と称し、江戸時代は久万山六千石といい、大部分が松山藩領で、代官所が置かれた。水田耕作のほか、コウゾを栽培し紙漉(かみす)きも行った。1741年(寛保1)藩の紙割当て強制に抗して農民3000人が大洲城下へ逃散(ちょうさん)する久万山騒動が起きた。中心集落の久万地区は土佐街道の宿駅、また四国八十八か所第44番札所菅生山大宝寺(だいほうじ)の門前町である。農林業が盛ん。面積の8割以上が森林で、スギ、ヒノキの良材山地として知られ、久万茶や、自然条件を生かしたトマトなどの高冷地野菜も産する。円錐(えんすい)状の礫岩(れきがん)峰が連なる景観の古岩屋(ふるいわや)は、国の名勝に指定されている。
[横山昭市]