日本大百科全書(ニッポニカ) 「久万高原」の意味・わかりやすい解説
久万高原(町)
くまこうげん
愛媛県の中央東部にある上浮穴(かみうけな)郡の町。2004年(平成16)久万町と面河村(おもごむら)、美川村(みかわむら)、柳谷村(やなだにむら)が合併して成立。北は石鎚(いしづち)山(1982メートル)を最高峰とする石鎚山脈の南斜面を占め、東は岩黒(いわぐろ)山(1746メートル)、筒上(つつじょう)山(1860メートル)、三光ノ辻(さんこうのつじ)山(1215メートル)、二箆(ふたつの)山(1192メートル)、中津(明神)山(1541メートル)、正木の森(1365メートル)、南は天狗高原(てんぐこうげん)(1485メートル)、五段城(ごだんじょう)(1456メートル)などの四国山地の山々で高知県と接する。石鎚山脈に発した面河川がほぼ南流して旧柳谷村地区で東に流れを変え、高知県に入り仁淀川となる。西部の松山市境にある三坂峠は古来土佐との往来の最大難所であった。国道33号、380号、440号、494号が通る。
旧美川村域にある縄文時代の上黒岩岩陰遺跡(国指定史跡)からは神像を描いた刻線礫が出土している。古代には伊予すだれが特産で、『源氏物語』などにも登場する。中世は三坂峠を擁する東明神に大除城(おおよけじょう)が築かれた。湯築(ゆづき)城(松山市)に拠(よ)った河野氏が土佐に対する備えとして大野氏を置いたとされる。江戸時代は大部分が松山藩領であった。石鎚山脈の南西山麓(さんろく)は久万山といい、深山(みやま)とよばれる原生林が多く、藩の御用林として面河山などが指定されていた。大半が山畑で産物は茶や紙であった。1741年(寛保1)には松山藩の紙方新法を不服とした領民が大洲城下に逃散する事件があった。
主産業は林業と農業で、現在林野率は約90%、人口林率は約80%(2017)。久万林業として知られるスギ・ヒノキを中心とする全国有数の林業地である。農業はダイコン・トマト・ピーマンなどの高冷地野菜や果樹栽培が行われている。四国八十八か所第44番札所大宝寺、45番岩屋寺がある。石鎚山一帯は石鎚国定公園に含まれ、南麓の面河渓は四国最大級の渓谷で国指定名勝。南部の標高約1400メートルの高知県境一帯はみごとな石灰岩台地を形成し、四国カルスト県立自然公園の一部をなしている。面積583.69平方キロメートル、人口7404(2020)。
[編集部]
久万高原
くまこうげん
愛媛県中央部、石鎚(いしづち)山地の西に広がる高原。石墨(いしずみ)山、陣ヶ森、皿ヶ嶺(さらがみね)の山系の南に広がる緩斜面で、標高400~600メートル。地質は三波川(さんばがわ)変成岩類の基盤に石鎚層群(火成岩)や久万層群(堆積(たいせき)岩)の第三紀層の被覆をのせている。この面を仁淀(によど)川上流域の支流河川が削剥(さくはく)し、いわゆる梨棚(なしたな)式に二名(にみょう)、露峰(つゆみね)、久万、畑野川、直瀬(なおせ)、笠方(かさがた)の小盆地群を形成している。盆地周辺には老年期性山地が配列し、高原上の河川は側方侵食や埋積作用が盛んで、平衡状態に近い。盆地底の沖積地、周辺の洪積台地が広く、水田や畑地に利用されている。丘陵性山地では生産性の高い林業、茶、高冷地野菜などの生産が盛んである。
[深石一夫]