二口村(読み)ふたくちむら

日本歴史地名大系 「二口村」の解説

二口村
ふたくちむら

[現在地名]根上町西二口町にしふたくちまち

下江しものごう村の東に位置。中世は郡家ぐんけ庄に含まれていた。明徳二年(一三九一)九月二八日の西大寺末寺帳(極楽寺文書)に「二口明星寺」とあり、奈良西大寺の末寺真言律宗明星みようじよう寺があった。これより先の貞治年間(一三六二―六八)頃と推定される勝楽寺寺田引付(大徳寺文書)のなかに「貞包名内 一反明星寺」とみえ、同寺は任田とうだ郷内勝楽しようらく(現小松市)の寺田の一部を請作している。また郡家庄の領家勧修かじゆう(現京都市山科区)蔵の聖教「舎利講式」の大永三年(一五二三)六月一日の修理奥書によれば、この講式は同寺塔頭慈尊院宣済の筆跡で、宣済は応仁の乱で勧修寺が炎上したため郡家庄へ下り、明星寺において書写したものという。文明六年(一四七四)九月六日には宗杲が「賀州イタツ二口薬師寺」において「印明之事」(東寺勧智院金剛蔵聖教)を書写し、文亀二年(一五〇二)八月には「法華表白」(勧修寺蔵聖教)が「二口町庇坊」で書写され、その祖本は二口の薬師寺にあると奥書されている。


二口村
ふたくちむら

[現在地名]尾口村東二口ひがしふたくち

手取川左岸の河岸段丘上に位置し、西に白抜しらぬき(八九一メートル)鷲走わしそうヶ岳(一〇九六・六メートル)などの山地をもつ。天正二年(一五七四)七月八日の五郎兵衛売券(林文書)によると、売買の対象となった地は「二口山」のうちにあった。文禄三年(一五九四)五月一〇日のむつし売渡証文(同文書)の売主は「二口村惣在所」と記される。越前国正保郷帳では田高二石余・畑高四石。元禄一一年(一六九八)の十八ヶ村高小物成帳(斎藤文書)では免七ツ九分八厘、家数三三、小物成は夫銀四二匁・夫綿銀二三匁余・夫糸代九匁余。文久三年(一八六三)の白山麓十八ヶ村由緒控(金沢市立図書館蔵)による高六石余、田八反・畑五町。


二口村
ふたくちむら

[現在地名]大門町二口

大門新町の南に位置し、村の中央を熊野くまの往来、西部を中田なかだ宿(現高岡市)に至る道が通る。地名の由来は往古この地に用水の分水口があったことによるとされる。天正一一年(一五八三)八月二〇日佐々成政が家臣の槻尾甚助に与えた知行方目録(水越家文書)に「百五拾九俵所 中郡二口村、参拾俵之所 中郡二口とゝろい分」とある。正保郷帳では高八二一石、田方三五町七反余・畑方一九町、ほかに新田高九四石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高一千二六石、免四ツ四歩、ほかに明暦三年―寛文五年(一六五七―六五)の新田高が六三石ある。


二口村
ふたくちむら

[現在地名]金沢市二口町・駅西本町えきにしほんまち一―三丁目

長田ながた村の西に位置し、宮腰みやのこし往来が横断する。中世には豊田といた庄のうち。天文六年(一五三七)、一向一揆の指導者洲崎兵庫の一族に押領されていた「豊田七村之内二口」などの知行回復を甘露寺家は本願寺に依頼、同年五月一七日証如は近々に申付けを行うことを約し、翌七年八月二八日にも申付けが行われている。


二口村
ふたくちむら

[現在地名]志雄町二口

菅原すがわら村の西、子浦しお川右岸の水田地帯の村。大永六年(一五二六)一〇月書写の気多社年貢米銭納帳(気多神社文書)によれば気多社の免田が散在し、「二口大ゆう」「次郎介」が年貢を請負い、百姓中で三〇〇文と定められていた。戦国末期には長紀伊守の支配が及んでいた(天正五年一一月一日「免田指出案」気多大宮司家文書)。正保郷帳によると高五九四石余、田方三三町三反余・畑方六町三反余、免三ツ三歩九厘。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高六〇七石、免四ツ六歩、新田高一二石、小物成は山役一七二匁・苦竹役六匁、鳥役五匁(出来)であった(三箇国高物成帳)


二口村
ふたくちむら

[現在地名]豊田市豊松とよまつ町 二口

ともえ川の支流仁王におう川の南にあり、標高三〇〇メートル前後の山々に囲まれている。下河内しもごうちから東宮口ひがしみやくちを経て足助あすけ(現東加茂郡足助町)に抜ける外下山としもやま街道に沿っている。海道畔かいとぐろというカイト名が残る。近世初めは幕府領、寛永四年(一六二七)奥殿藩領となり、明治に至る。慶長九年(一六〇四)の参河国賀茂郡二口村御検地帳(二口区有)によると、検地奉行辰巳藤右衛門によって検地が行われた。


二口村
ふたくちむら

[現在地名]富山市二口

富山城下の南西方、熊野くまの川右岸に位置する。城下からの道が当地で南の黒瀬くろせ村を通って八尾やつおへ向かう道と、東の今泉いまいずみ村方面に至る道に分岐するのが村名の由来という。永享の乱以前のものとみられる加藤名字注文(熊野那智大社文書)に「越中大田庄ふた口の藤七殿も加藤也」とみえる。江戸初期は加賀藩領、万治三年(一六六〇)の領地替で富山藩領となる。正保郷帳では高四五五石余、田方三〇町二反余・畑方一反余。明暦二年(一六五六)の村御印留では草高四六八石、免四ツ五歩。


二口村
ふたくちむら

[現在地名]松任市上二口町かみふたくちまち

平松ひらまつ村の東に位置。慶長一二年(一六〇七)六月の中村用水普請人夫ニ付達書(松任町史)に「ふたくち村」とみえる。正保郷帳では当村と乙丸おとまる村が連記され、二村分の高一千七七石余、田方六八町一反余・畑方三町六反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印は別々に出されており、当村の高四九九石、免五ツ九歩、小物成はなし(「村御印」新松任町史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、和歌山県串本町の民間発射場「スペースポート紀伊」から打ち上げる。同社は契約から打ち上げまでの期間で世界最短を目指すとし、将来的には...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android