道家思想の祖として知られる老子が、道教(2世紀後半に始まる中国の民俗宗教)において神とされたときの尊称。確実なところ『魏(ぎ)書』「釈老志」(5世紀前半の北魏における道教の記録)を初見とし、そこでは最高神として扱われている。しかしその後、道教の教理が発展するに伴い、より高次元の神として元始天尊(げんしてんそん)(応化身(おうげしん)としての老君に対して法身(ほっしん)にあたる)、太上道君(老子の説く「道」の神格化)が出現すると、太上老君はその下に置かれるようになった。以上の三神を三尊という。老君は三尊中の下位にあるとはいえ、もっとも人間的な神として民衆に親しまれ、現在なお東南アジアの各地にその祠廟(しびょう)がある。老君の真身(しんしん)は永遠に天上にあるが、時機に応じて地上に化現(けげん)するとされており、思想家としての老子の在世もその一つに数えられるが、さらにその後も歴代に化現して経典や戒律を授けたと伝えられる。
[楠山春樹]
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… 漢民族の宗教としてのいわゆる道教が,みずからの教えを道教として意識し,対外的にも道教とよぶようになるのは,もちろん中国仏教のそれよりもはるかにおくれており,4世紀の初め,西晋末期に成立した道教の基礎理論書《抱朴子》の中においてもまだ〈道教〉という2字の成語は用いられていない。この言葉が道教の神学教理と密接に関連して確実な文献の上に見えてくるのは,北魏の歴史を記録した正史《魏書》においてであり,その〈釈老志〉に載せる5世紀の初め,北魏の明元帝の神瑞2年(415),嵩山(すうざん)の山頂に降臨したという道教の大神,太上老君の道士寇謙之(こうけんし)に告げた神勅の中においてである。〈吾れ(太上老君)故に来りて汝を観,汝に天師の位を授け,汝に雲中音誦新科の誡二十巻を賜う……汝は吾が新科を宣(の)べて道教を清め整え,三張の偽法の租米銭税および男女合気の術を除去せよ。…
…その中心となる三洞は,5世紀中ごろ宋の陸修静が《大洞真経》を所依の経典とする上清派(茅山派)の立場からする教相判釈(きようそうはんじやく)を示したもので,成立が古く呪術的性格の強い《三皇経》など道教教理の最下層をなす経典を洞神部に,ついでやや新しい層をなす《霊宝経》などを洞玄部に,そして仏教教理を反映した最新の層をなす《大洞真経》などを洞真部に配する。 一方,道教の最高神は,後漢から東晋頃までは老子を神格化した太上老君であったが,5世紀には老子の説く〈道〉を神格化した太上道君が,6世紀には元始天尊が加上されていき,これに対応して宗教的悟りの境位も太清境の上に上清境,玉清境が次々と加えられた。隋・初唐の道教教理学は仏教教理学に刺激されて,かかる道教教理の歴史的展開の跡を共時的な相において体系化することを目ざし,洞真部は玉清境における元始天尊の所説で大乗聖人の教え,洞玄部は上清境における太上道君の所説で中乗真人の教え,洞神部は太清境における太上老君の所説で小乗仙人の教えという教相判釈を立てた。…
… この老子の伝記のあいまいさは,後漢から六朝時代にかけての仏教の流入盛行と道教の成立とにつれて,老子は関を出たあと天竺(てんじく)に行って仏教を興したという老子化胡説話や各朝代ごとに転生して歴代帝王の師となったという老子転生説話を生んだ。また,後漢時代にはその神格化が始まり,宮廷での祭祀が行われたが,やがて道教の始祖として〈太上老君〉なる神格にまつりあげられた。一方老子書については,全体がわずか5000余字の短編であること,ごく短い有韻の断章の集積で,あたかも箴言(しんげん)ないし格言集的性格をもつこと,全編を通じて固有名詞や作者の個性を感じさせる表現が皆無であることなど,他の先秦諸子の書には見られない特徴が存し,もともと口承されてきた道家的成句,箴言のたぐいが漸次敷衍(ふえん)されて,ある時期に一書にまとめられたものと考えられる。…
※「太上老君」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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