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仁田忠常 にったただつね

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

仁田忠常
にったただつね

[生]?
[没]建仁3(1203).9.6. 鎌倉
鎌倉時代初期の武士。伊豆国御家人新田四郎忠常ともいう。源頼朝が挙兵したときはせ参じた一人で,以後頼朝の側近として仕え,元暦2 (1185) 年3月範頼に従って鎮西各地に転戦。建久4 (93) 年5月曾我兄弟の襲撃のとき,十郎祐成を斬った。

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デジタル大辞泉の解説

にった‐ただつね【仁田忠常】

[?~1203]鎌倉初期の武将。伊豆の人。通称、仁田四郎(にたんのしろう)。源頼朝に仕え、範頼に従って平氏を追討。また、富士の巻狩り曽我十郎祐成を討った。のち、将軍頼家北条時政の争いに巻き込まれて殺された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

仁田忠常 にった-ただつね

1167-1203 平安後期-鎌倉時代の武士。
仁安(にんあん)2年生まれ。源頼朝に挙兵時からしたがい,信任される。建久4年富士の巻狩曾我祐成(すけなり)(十郎)を討ちとった。建仁(けんにん)3年北条時政の命で比企能員(ひき-よしかず)を討ったが,将軍頼家に時政追討を命じられ,同年9月6日北条氏に殺された。37歳。伊豆(いず)仁田郷(静岡県)出身。通称は四郎。姓は「にたん」ともよみ,新田ともかく。

出典|講談社
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朝日日本歴史人物事典の解説

仁田忠常

没年:建仁3.9.6(1203.10.12)
生年:仁安2(1167)
鎌倉前期の武士。新田とも書く。四郎と称す。工藤,狩野と同族。伊豆仁田郷(静岡県函南町)の住人。治承4(1180)年,源頼朝の挙兵に加わり,西国の平家追討で活躍,奥州征討に参加,頼朝の上洛に供奉した。頼朝の巻狩にはしばしば射手を務め,富士の巻狩で乱入した曾我祐成を討つ。忠常の大病を頼朝自ら見舞うなど信任が厚かった。妻はその平癒祈願をした伊豆三島神社へ参詣の途中溺死,貞女といわれた。源頼家の近習に用いられ,建仁3(1203)年の比企氏の乱で比企能員を討つ。これを怒った頼家は事件の黒幕北条時政の追討を忠常に命じたが,弟忠時らの誤解もあって北条氏に討たれた。富士の人穴の探検などエピソードが多い。

(湯山学)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

にったただつね【仁田忠常】

?‐1203(建仁3)
鎌倉初期の武士。新田とも書く。伊豆国の住人。源頼朝の伊豆挙兵以来,これに従って頼朝の信任を得る。1203年の北条時政と将軍源頼家の外戚比企能員(よしかず)の対立に際して,忠常は時政にくみしたが,時政による比企氏謀殺を憤った頼家は,和田義盛と忠常に時政追討を命じた。義盛はこれに応じず,時政に内通したが,忠常はあいまいな態度を示したため,疑われて時政に滅ぼされた。【細川 涼一】
[伝承]
 《曾我物語》巻八〈富士野の狩場への事〉によって,頼朝の面前で猪に逆さまに乗ってしとめたという忠常の勇猛ぶりは知られているが,この猪は実は山神であり,そのたたりで忠常はいくほどもなく謀反の疑いをかけられ,討たれたとある。

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大辞林 第三版の解説

にったただつね【仁田忠常】

?~1203) 鎌倉初期の武将。伊豆の人。通称、仁田四郎にたんのしろう。源頼朝の平家追討戦に従軍。また富士の巻狩りで、曽我十郎祐成を討った。将軍頼家と北条氏の政争に伴い、北条氏に殺された。

出典|三省堂
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