3世将棋名人。出雲国に生まれる。2世名人大橋宗古の門人になり,棋力に秀でていたために宗古の娘をめとって伊藤家を興した。幕府より家禄として代々20石五人扶持を支給され,1654年(承応3)宗古が没すると名人に就任。以後将棋所の司である名人位は大橋本家,分家および伊藤家のいずれかにより世襲することになり,将棋の家元制度が確立した。宗看のときに将棋三家は京都から江戸に移住,名実ともに将棋役として幕府に奉公するようになった。江戸城での御前将棋が定式化されたのもこのころである。宗看は大橋家の出身でないゆえか民間の将棋指との対局も多く,実力のうえからも名人として将棋家の権威を高めた。なお,《将棋無双》,または《詰むや詰まざるや百番》と称される難解な詰将棋作品集を作ったのは7世名人の3代目伊藤宗看(1706-61・宝永3-宝暦11)で,6代目伊藤宗看(1768-1843・明和5-天保14)も10世名人になっている。
執筆者:増川 宏一
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江戸時代の将棋棋士。2代伊藤宗印の二男。幼名は印寿。1724年(享保9)3代宗看の名で「御城(おしろ)将棋」を務める。27年八段に昇り、翌28年、23歳という史上最年少で7世名人を襲位。名人襲位6年目に献上した図式(詰め将棋)の「象戯(しょうぎ)図式」は名作で難解。後代の人は「詰むや詰まざるや百番」と称して有名である。弟看寿は享保(きょうほう)時代(1716~36)を代表する傑作「象棋百番奇巧図式」(通称「将棋図巧」)を遺(のこ)し、42歳で没後名人を贈られた。「鬼宗看」といわれるその棋風の、正しい大局観、中盤は軽快かつ豪快、応変の力強さ、寄せの鮮やかさが御城将棋の実戦譜に示されている。歴代名人中、最強とみるファンが多い。
[原田泰夫]
『伊藤宗看・看寿著『詰むや詰まざるや』(平凡社・東洋文庫)』
(谷口牧夫)
(谷口牧夫)
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…算砂がその司に任ぜられたが,1612年(慶長17)に算砂,宗桂に家禄50石が支給された。34年(寛永11)に大橋家は宗桂の長子・宗古が継いだが,宗古の弟宗与は分家し,宗桂の門人伊藤宗看(そうかん)(後の3世名人)が宗古の娘婿となって新たに伊藤家を興した。35年大橋両家と伊藤家に家禄20石が支給されるようになり,この世襲3家によって家元制度が確立した。…
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