日本大百科全書(ニッポニカ) 「伊賀氏」の意味・わかりやすい解説
伊賀氏
いがうじ
中世東国の豪族、鎌倉幕府の吏僚。秀郷流(ひでさとりゅう)藤原氏。蔵人所(くろうどどころ)の下級官人であったが、藤原朝光(ともみつ)が1210年(承元4)3月19日に伊賀守に任ぜられ、以後伊賀氏を名乗るようになった。朝光は鎌倉幕府の成立より源頼朝に従い、幕府宿老として数々の戦功をあげた。1219年(承久1)朝光の子伊賀光季(みつすえ)は京都守護として上洛したが、1221年承久の乱で後鳥羽上皇方の軍に攻められ自刃。朝光の女(むすめ)は幕府執権北条義時の後室となったが、義時没後の1224年(元仁1)、兄の政所執事(まんどころしつじ)伊賀光宗と謀り自子政村を執権にし、女婿(じょせい)一条実雅(いちじょうさねまさ)を将軍に立てて幕府の実権を握ろうとしたと北条政子より嫌疑をかけられ、伊賀氏一族は幕政から一掃された。これは政子が世代交代による自らの権力の低下を防ごうとするための策略であったとみられる。伊賀氏一族は政子の死去によって赦免され、幕政に復帰して以後も代々幕府の吏僚として政務に重きをなし、1275年(建治1)光政が関東の評定衆から六波羅(ろくはら)評定衆に転じて以降、一族も主な活動の場を京都に移した。主な所領は陸奥(むつ)・常陸・武蔵・甲斐・信濃・若狭・備前・但馬(たじま)・筑前の各国に分布しており、邸宅は鎌倉と京都にあった。建武政権下では兼光が後醍醐天皇の寵臣として活躍し、また貞長は奥州小幕府二番引付(ひきつけ)となった。鎌倉末期の備前国守護光貞の猶子(ゆうし)盛光(もりみつ)は南北朝動乱期に陸奥国好島(よしま)荘に北遷して国人領主となり、足利方として活躍して東海道検断職(とうかいどうけんだんしき)に補任された。その子孫は荘内の郷名から飯野(いいの)氏を名乗るようになり、国指定重要文化財の「飯野家文書」は伊賀氏・飯野氏の家伝文書。在京の伊賀氏のなかには室町幕府の奉公衆となる者もあり、備前伊賀氏は1578年(天正6)の備前国虎倉城(こくらじょう)(現、岡山市)城主久隆まで存続する。
[渡辺智裕]
『いわき市史編さん委員会編『いわき市史』1・8(1986、1976)』▽『永井晋著『鎌倉幕府の転換点』(2000・日本放送出版協会)』▽『飯野文庫編『定本飯野家文書 中世篇』(2002)』▽『『網野善彦著作集』第6巻(2007・岩波書店)』