三重県伊賀市に伝わる焼き物で14世紀に始まったとされる。17世紀前半から茶道具も作られるようになり、焼く過程で生まれるガラス質のビードロ
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三重県伊賀地方の焼物。伊賀国に古窯(こよう)が開かれたのは中世と推測され、隣接する信楽(しがらき)焼とは一体をなして展開したらしく、三重県伊賀市槇山(まきやま)にあるオスエノヒラ窯(かま)と滋賀県甲賀(こうか)市信楽町の五位ノ木窯が知られている。伊賀焼が独自の個性をもって作陶をなしたのは桃山時代に入って、わびの茶の湯の道具、いわゆる茶陶を焼造してからのちである。先の槇山窯と同じ町に築かれた丸柱窯、および伊賀上野の城内にあったと推定される窯などが知られている。茶陶の文献上の初見は1581年(天正9)の『天王寺屋会記』であり、この時期この地方を領有した筒井定次(さだつぐ)、そして交替した藤堂高虎(とうどうたかとら)・高次父子の時代、天正(てんしょう)・文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)・元和(げんな)・寛永(かんえい)(1573~1644)にかかる桃山~江戸初期が最盛期で、その後は一気に凋落(ちょうらく)したらしい。白色の良質な炻器質(せっきしつ)素地を中世以来の伝統的な粘土紐(ひも)造りで成形して豪放に焼きしめた水指(みずさし)、花生(はないけ)はとくに声価が高く、わびの美意識を象徴するといえよう。藤堂第7代藩主高豊(たかとよ)は伊賀焼を再興し、古伊賀とは違った施釉陶(せゆうとう)を焼造し始めた。
復興伊賀は瀬戸から陶工を招聘(しょうへい)し、宝暦年間(1751―1764)に始まるといわれており、瀬戸と同じ施釉陶が焼かれ、以後、黒褐釉、白濁釉、青釉、鉄絵、染付、色絵など、時世にあった技術を使って、主として日常器皿(きべい)を生産し、今日にいたる。
[矢部良明]
『林屋晴三編『日本陶磁全集 13 伊賀』(1977・中央公論社)』
伊賀国(三重県)阿山郡の旧伊賀上野領一帯で作られた陶器の総称。須恵器系の窯技から発達したとみられるが,室町時代以前の古窯址の存在は不明である。〈古伊賀〉と呼ばれる作品は主として桃山時代のもので,古窯址は槙山(まきやま),丸柱,伊賀城内にあり,1585年(天正13)に筒井定次,1608年(慶長13)に藤堂高虎が領主として入部してからは,俗に〈筒井伊賀〉とか〈藤堂伊賀〉とも呼ばれた。しかし両者の作風の相違は判然とせず,作為の強い織部好みのものを特徴としている。器種は花生,水指,香合などが多く,大胆な器形,力強い篦(へら)使い,激しい窯変,青翠色のビードロ釉に特色がある。〈筒花生 銘生爪〉〈耳付花生 銘からたち〉〈擂座(るいざ)水指 銘破袋〉〈伽藍石香合〉などが代表的な作例である。天正年間(1573-92)後半から寛永(1624-44)末年ごろまで活動し,茶陶伊賀の名品を焼造した槙山窯,丸柱窯はその後100年ほど中絶したが,宝暦年間(1751-64)に復興された。その製品のほとんどは施釉の日常雑器に転じ,再興伊賀と呼ばれている。
執筆者:河原 正彦
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