明治〜昭和期の憲法学者,行政法学者 京都大学名誉教授;元・立命館大学学長;元・貴院議員。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
日本の憲法学および行政法学の確立・完成に大きな役割を果たした一人。鳥取市生れ。京都帝国大学法科大学を卒業後同大学に残り,やがて教授となったが,1933年滝川事件(京大事件)を契機に同僚とともに辞職した。学界全体が大政翼賛運動に巻き込まれていくなかで,大政翼賛会違憲論を主張した。45年,内大臣府御用掛として,近衛文麿とともに帝国憲法改正の考査にあたり,改正案を草したが,その作業に対する批判が強まり,占領軍当局の方針変更もあって,その改正案は日の目をみずに終わった。
代表的著書として,《立憲非立憲》(1918),《日本行政法論・総論,各論》(1921,22),《日本憲法要論》(1930),《日本国憲法論》(1949),《憲法学論文選》(1956-57),《法の根本的考察》(1965)等がある。佐々木公法学の特徴は,客観的論理性に徹した解釈学を展開した点にあるとされるが,それだけに,その時代時代の社会的・政治的文脈に応じて自由主義的にあるいは保守的に映じ,またさまざまな立場から種々の評価を生み出すところともなっている。
執筆者:佐藤 幸治
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憲法・行政法学者。京都大学名誉教授、京都市名誉市民であった。鳥取市に生まれる。鳥取一中、四高を経て、1903年(明治36)京都帝国大学法科卒業。講師、助教授を経て、13年(大正2)同大教授となり、この間、憲法・行政法を講じていたが、33年(昭和8)の滝川事件を契機に、政府に抗議して同僚とともに辞職し、のちに立命館大学学長に迎えられた。29年(昭和4)以来、公法研究会、行政法判例研究会などを主宰し、弟子や後進を指導した。第二次世界大戦後、内大臣府御用掛として帝国憲法の改正に携わり、改正草案(いわゆる佐々木私案)をつくったことは有名。その骨子は、国民統合の体制として天皇制の国体は不変であることを前提にしながら、政治を民主化するという点に置かれた。公法学界では、東京帝国大学の美濃部達吉(みのべたつきち)と並んで、「東の美濃部、西の佐々木」と称されて、長らく学界の指導的地位を占め、52年(昭和27)文化勲章を授けられた。その特色は、徹底した客観的論理主義に基づく解釈論を展開したことにあり、主著として『日本行政法原論』(1920)、『立憲非立憲』(1918)、『日本憲法要論』(1930)、『わが国憲法の独自性』(1943)、『日本国憲法論』(1949)、『憲法学論文選』(1956~57)、『法の根本的考察』(1965)などがある。
[池田政章]
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1878.3.28~1965.8.4
明治~昭和期の憲法学者。鳥取県出身。京大卒。京都帝国大学助教授をへて1913年(大正2)に教授となるが,33年(昭和8)滝川事件に抗議して辞職。客観的論理主義に徹した憲法学の体系を示して東の美濃部達吉と並び称された。第2次大戦後は近衛文麿のもとで憲法改正案を起草したが未公表となり,さらに憲法審議に参加,新憲法案に反対した。52年文化勲章受章。著書「日本憲法要論」「日本国憲法論」。
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各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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