佐々木惣一(読み)ササキソウイチ

デジタル大辞泉 「佐々木惣一」の意味・読み・例文・類語

ささき‐そういち【佐々木惣一】

[1878~1965]法学者。鳥取の生まれ。憲法および行政法権威として、天皇機関説民本主義主張。京大教授。在任中、滝川事件に連座して退官、のち、立命館大学学長。第二次大戦後帝国憲法改正参画文化勲章受章。著「日本国憲法論」など。

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精選版 日本国語大辞典 「佐々木惣一」の意味・読み・例文・類語

ささき‐そういち【佐々木惣一】

  1. 憲法・行政法学者。鳥取県出身。京都帝大卒。同教授。憲法および行政法の権威として美濃部達吉とともに公法学界の中心的存在であった。京大事件で大学自治確立に努力、滝川事件で退官。立命館大学学長。第二次世界大戦後、新憲法作成の審議に加わり、「佐々木私案」を作った。文化勲章受章。著書「日本行政法原論」「日本国憲法論」など。明治一一~昭和四〇年(一八七八‐一九六五

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20世紀日本人名事典 「佐々木惣一」の解説

佐々木 惣一
ササキ ソウイチ

明治〜昭和期の憲法学者,行政法学者 京都大学名誉教授;元・立命館大学学長;元・貴院議員。



生年
明治11(1878)年3月28日

没年
昭和40(1965)年8月4日

出生地
鳥取県鳥取市

別名
俳号=笹舟

学歴〔年〕
京都帝大法科大学〔明治36年〕卒

学位〔年〕
法学博士

主な受賞名〔年〕
文化勲章〔昭和27年〕,京都市名誉市民

経歴
京大講師、助教授を経て大正2年教授。憲法、行政法を担当。昭和8年滝川幸辰教授の刑法思想をめぐる政府弾圧(滝川事件)に抗議して同僚とともに職を辞し、大学の自治を守った。また9年の東大森戸辰男筆禍事件では、特別弁護人として学問研究の自由を説き森戸を擁護した。立命館大学に移って、9〜11年学長を務めた後は、公法雑誌の編集と執筆に当たったが、20年内大臣府御用掛として近衛文麿とともに帝国憲法改正考査に携った。21年貴族院議員に勅選され、新憲法審議に参加。22〜23年和辻哲郎と国体論争を展開した。27年文化勲章受章。初の京都市名誉市民。著書に「日本国憲法論」「天皇の国家的象徴性」など。

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改訂新版 世界大百科事典 「佐々木惣一」の意味・わかりやすい解説

佐々木惣一 (ささきそういち)
生没年:1878-1965(明治11-昭和40)

日本の憲法学および行政法学の確立・完成に大きな役割を果たした一人。鳥取市生れ。京都帝国大学法科大学を卒業後同大学に残り,やがて教授となったが,1933年滝川事件(京大事件)を契機に同僚とともに辞職した。学界全体が大政翼賛運動に巻き込まれていくなかで,大政翼賛会違憲論を主張した。45年,内大臣府御用掛として,近衛文麿とともに帝国憲法改正の考査にあたり,改正案を草したが,その作業に対する批判が強まり,占領軍当局の方針変更もあって,その改正案は日の目をみずに終わった。

 代表的著書として,《立憲非立憲》(1918),《日本行政法論・総論,各論》(1921,22),《日本憲法要論》(1930),《日本国憲法論》(1949),《憲法学論文選》(1956-57),《法の根本的考察》(1965)等がある。佐々木公法学の特徴は,客観的論理性に徹した解釈学を展開した点にあるとされるが,それだけに,その時代時代の社会的・政治的文脈に応じて自由主義的にあるいは保守的に映じ,またさまざまな立場から種々の評価を生み出すところともなっている。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「佐々木惣一」の意味・わかりやすい解説

佐々木惣一
ささきそういち
(1878―1965)

憲法・行政法学者。京都大学名誉教授、京都市名誉市民であった。鳥取市に生まれる。鳥取一中、四高を経て、1903年(明治36)京都帝国大学法科卒業。講師、助教授を経て、13年(大正2)同大教授となり、この間、憲法・行政法を講じていたが、33年(昭和8)の滝川事件を契機に、政府に抗議して同僚とともに辞職し、のちに立命館大学学長に迎えられた。29年(昭和4)以来、公法研究会、行政法判例研究会などを主宰し、弟子や後進を指導した。第二次世界大戦後、内大臣府御用掛として帝国憲法の改正に携わり、改正草案(いわゆる佐々木私案)をつくったことは有名。その骨子は、国民統合の体制として天皇制の国体は不変であることを前提にしながら、政治を民主化するという点に置かれた。公法学界では、東京帝国大学の美濃部達吉(みのべたつきち)と並んで、「東の美濃部、西の佐々木」と称されて、長らく学界の指導的地位を占め、52年(昭和27)文化勲章を授けられた。その特色は、徹底した客観的論理主義に基づく解釈論を展開したことにあり、主著として『日本行政法原論』(1920)、『立憲非立憲』(1918)、『日本憲法要論』(1930)、『わが国憲法の独自性』(1943)、『日本国憲法論』(1949)、『憲法学論文選』(1956~57)、『法の根本的考察』(1965)などがある。

[池田政章]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「佐々木惣一」の意味・わかりやすい解説

佐々木惣一
ささきそういち

[生]1878.3.28. 鳥取
[没]1965.8.4. 京都,京都
大正・昭和期の公法学者。1903年京都帝国大学卒業,ただちに同大学法科大学講師となり,1913年教授に就任。1933年の滝川事件により退官。憲法行政法の権威で,大正デモクラシーの有力な論客であり,立憲主義的で客観主義的かつ論理主義的な憲法論を展開した。1945年には内大臣府御用掛として大日本帝国憲法改正のための佐々木案を作成し,1946年には貴族院議員として憲法案の審議に加わった。1952年文化勲章を受章。主著に『日本憲法要論』(1930),『日本国憲法論』(1949)がある。

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百科事典マイペディア 「佐々木惣一」の意味・わかりやすい解説

佐々木惣一【ささきそういち】

憲法・行政法学者。鳥取市出身。京大卒後,母校で教えたが,滝川事件に際して学問の自由のために教授を辞職,のち立命館大学長となった。戦後,内大臣府の委嘱を受けて憲法改正草案を作った。1952年文化勲章。主著《日本行政法原論》《日本憲法要論》《日本国憲法論》。
→関連項目森戸事件

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「佐々木惣一」の解説

佐々木惣一
ささきそういち

1878.3.28~1965.8.4

明治~昭和期の憲法学者。鳥取県出身。京大卒。京都帝国大学助教授をへて1913年(大正2)に教授となるが,33年(昭和8)滝川事件に抗議して辞職。客観的論理主義に徹した憲法学の体系を示して東の美濃部達吉と並び称された。第2次大戦後は近衛文麿のもとで憲法改正案を起草したが未公表となり,さらに憲法審議に参加,新憲法案に反対した。52年文化勲章受章。著書「日本憲法要論」「日本国憲法論」。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「佐々木惣一」の解説

佐々木惣一 ささき-そういち

1878-1965 明治-昭和時代の法学者。
明治11年3月28日生まれ。京都帝大教授。昭和8年滝川事件で政府に抗議して辞職。のち立命館大学長。戦後,帝国憲法の改正草案をつくった。27年文化勲章。昭和40年8月4日死去。87歳。鳥取県出身。京都帝大卒。著作に「日本行政法原論」「日本国憲法論」など。

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367日誕生日大事典 「佐々木惣一」の解説

佐々木 惣一 (ささき そういち)

生年月日:1878年3月28日
明治時代-昭和時代の法学者。京都大学教授;立命館大学学長;元・貴院議員
1965年没

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