佐倉(市)(読み)さくら

日本大百科全書(ニッポニカ) 「佐倉(市)」の意味・わかりやすい解説

佐倉(市)
さくら

千葉県北部、下総(しもうさ)台地北部と印旛(いんば)沼の低地に広がる市。1954年(昭和29)佐倉町と臼井(うすい)町、志津(しづ)村、根郷(ねごう)村、和田村弥富(やとみ)村が合併して市制施行。地名の佐は狭い土地を意味し、下総台地小谷が入り込んだようすを示している。JR総武本線が通じ、成田線を分岐する。北部に京成電鉄本線が走るとともに、国道51号、296号や東関東自動車道(佐倉インターチェンジ)が通じているが、JR線と京成電鉄線は中央の台地上の市街地を挟んで低地に形成されたために、鉄道利用者は不便を余儀なくされる。

 鎌倉時代、千葉氏の一族臼井氏が印旛沼を見下ろす高台に城を構えて一帯を支配したが、その衰退後は馬加(まくわり)氏が現在の酒々井(しすい)町本佐倉の将門(まさかど)山に居城した。江戸時代には幕府の江戸防衛の拠点とされ、1610年(慶長15)土井利勝(としかつ)によって佐倉城が築かれた。その後多くの大名の転封が続いたが、1746年(延享3)の堀田正亮(ほったまさすけ)入封後は幕末まで堀田氏11万石の房総(ぼうそう)最大の城下町として、また佐倉街道の宿場町としても栄えた。幕末には蘭学者(らんがくしゃ)佐藤泰然(たいぜん)が順天堂と称する塾を開いて西洋医学による教育と医療を行い全国に知られた。明治以後は城跡陸軍の兵営が置かれ、明治末には歩兵五七連隊となったが、1983年(昭和58)その地に明治百年記念事業の一環として、歴史・考古・民俗資料を展示し、調査研究を進める国立歴史民俗博物館が開館した。佐倉城は自然の地形を利用して鹿島(かしま)川に面する台地上に築かれ、城下町はその東方の街道筋に沿って細長い街村形態をとったので、市街地の拡大が制約され、中心地の商業機能も低い。印旛沼の干拓地が広く、米作のほか近年は野菜生産が伸びている。かつては佐倉炭集散地をなし、今日では佐倉味噌(みそ)の産地として知られるが、郊外に根郷内陸工業団地も形成され近代工業が発展している。臼井付近では住宅地開発が進み、団地内交通としては新交通システム(ユーカリが丘線)が通じている。印旛沼を望む台地には農業体験や生き物とのふれあいのできる「佐倉草ぶえの丘」があり、近くに野鳥の森や釣り場、ゴルフ場、さらに堀田正倫の別邸庭園「さくら庭園」や武家屋敷跡などもある。城下鎮護の麻賀多(まかた)神社には県指定有形文化財の紫裾濃胴丸(むらさきすそごどうまる)の甲冑(かっちゅう)や江戸時代作の神輿(みこし)があり、秋の祭礼には山車(だし)が出、佐倉囃子(ばやし)が演じられる。市域には西洋文化との接触を示す天球儀、蘭日辞典『ハルマ和解(わげ)』をはじめとする鹿山(ろくざん)文庫関係資料など県指定有形文化財が残っている。面積103.69平方キロメートル、人口16万8743(2020)。

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『『佐倉市史』全3巻(1971~1979・佐倉市)』『篠丸頼彦著『佐倉の歴史』(1981・東洋書院)』


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