中国、後漢(ごかん)の思想家。字(あざな)は邵公(しょうこう)。山東省任城(にんじょう)(済寧(さいねい)市)の人。寡黙な人柄で、儒学に通じた。州郡に仕えなかったが、声望の高い太傅(たいふ)の陳蕃(ちんばん)(?―168)に召されて幕下に参じたため、蕃の失脚で党錮(とうこ)の禁にあい、しばらく家居して研究に専念し、のち議郎や諫議大夫(かんぎたいふ)を歴任した。当時の政教に対する批判を古典の注釈に昇華させて『春秋公羊伝解詁(くようでんかいこ)』を著している。そこに述べられた三科九旨(さんかきゅうし)説、とりわけ、天下が衰乱から升平(しょうへい)を経て太平に進むとする歴史哲学は、清(しん)末の思想家の注目をひき、康有為(こうゆうい)は三段階発展を説く歴史観と解釈して、変法自強運動の理論的根拠にした。『左氏膏肓(こうこう)』『穀梁廃疾(こくりょうはいしつ)』『公羊墨守(くようぼくしゅ)』をつくり、鄭玄(じょうげん)の反論を招いた。
中国,後漢の思想家。字は邵公(しようこう),山東任城(曲府)の出身。州郡に仕えなかったが,声望の高い太傅(たいふ)の陳蕃に召されて幕下に参じたため,党錮の厄にあい,しばらく家居した後,議郎や諫議大夫を歴任した。政教に対する批判を古典の注釈に昇華させて《春秋公羊伝解詁》を著した。そこに述べられている三科九旨説,とりわけ天下が衰乱から升平をへて太平に進むとする歴史哲学は,清末の思想家の注目をひいた。
執筆者:日原 利国
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…そしていずれ華夏の世界に同化されるべきものであった。このような考えかたを徹底させたのは春秋公羊学(くようがく)であって,《公羊伝》注釈家の後漢の何休は,自国以外は華夏の諸国といえども疎外する衰乱の世,華夏の諸国と夷狄とを区別する升平の世,華夏と夷狄との区別が消滅して世界がひとつに帰する太平の世,の3段階の歴史の展開を考えた。がんらい《公羊伝》においても,たとえ華夏の諸国であれ,いったん道義性を失ったときには夷狄なみにあつかわれ,華と夷とを峻別する意識はやはり顕著なのであるが,その《公羊伝》から何休のような考えかたが生まれたというのも,華夏と夷狄がすぐれて政治的,文化的な対概念であったからにほかならない。…
…また当時の経学は経術ともよばれて政治の実際と深く結びついており,ことに《春秋公羊伝》は天下統一の理念を強く示しているために重視され,漢代の春秋学は実際は公羊学を意味していた。ところが前漢の末ごろ,劉歆(りゆうきん)が《春秋左氏伝》をはじめ古文経書を重んじ,王莽(おうもう)が政権をにぎって,古文経書を博士官の教科書として以後,公羊学は衰え,後漢時代に何休が《春秋公羊伝解詁》を著したものの,学界では訓詁を重んずる古文学が主流となった。 その後,清代中ごろに至り,まず常州(江蘇省)の荘存与(1719‐88)が《春秋公羊伝》を顕彰し,ついで劉逢禄が何休の公羊学を重んじ《左氏伝》は劉歆の偽作だと指摘し,さらに龔自珍(きようじちん),魏源は,現実を遊離した考証学的学風を批判し,当面の崩壊しつつある王朝体制を救うために,何休の公羊学にもとづいて〈変〉の観念を強調した。…
…中国,孔子のつくった《春秋》の政治哲学に関する主張。《春秋》には《公羊伝(くようでん)》《穀梁伝》《左氏伝》の3学派があるが,このうち公羊学派のとなえた説で,後漢末に現れて漢代公羊学を集大成した何休によると,〈周を新とし,宋を故とし,春秋を以て新王に当つ。これ一科三旨なり〉すなわち天命が改まって新たに王となる場合,宋(殷)と周の子孫を大国に封じて新王とともに三王とする。…
※「何休」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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