日本大百科全書(ニッポニカ) 「価値判断論争」の意味・わかりやすい解説
価値判断論争
かちはんだんろんそう
Werturteildiskussion ドイツ語
価値判断は客観的に正当化されうるか。事実判断または事実認識は価値判断から中立でありうるか。価値判断をめぐるこれら二つの根本問題は、社会科学的認識の客観性ならびに社会科学的認識と政策策定との関連の問題にとってきわめて重要であり、これまで幾多の議論をよんできた。なかでも、1904年から1913年にかけて、ドイツの社会政策学会を舞台にG・シュモラーとM・ウェーバーとの間でなされた論争は著名であり、一般に「価値判断論争」といわれるとき、それは通常この論争のことをさしている。
19世紀末からドイツにおいて支配的であった後期歴史学派(シュモラー、L・ブレンターノら)は、社会政策とくに労働問題に関して優れて倫理的かつ実践的であった(講壇社会主義)。彼らの創設した社会政策学会の見解を代表するシュモラーは、分配に関する価値判断を客観的に正当化しうる、と考えていた。すなわち、それらの価値判断は、歴史的に相対的ではあるが、社会全体の平均的価値判断としてみなされうるものであり、またそのような平均的価値判断が可能となる場は、そのときの民族意識を母胎とする国家であり、したがってそのような価値判断は、単に個人的趣味の問題ではなく社会的過程の産物であって、習俗的な支配的価値基準にまで高めうるものである、とシュモラーは考えた。
当時社会政策学会の少壮メンバーであったウェーバーのシュモラーに対する批判の主要な論点は、次のとおりである。研究者はすべからく、経験的事実(これには個々の人間や集団によってなされる価値判断も含まれる)を確定することと、その事実をよいとか悪いとか判断する実践的な価値判断とを、二つのまったく異質の事柄として峻別(しゅんべつ)しなければならない(ウェーバーのこの要請は、彼の「没価値性」論の基本テーゼであり、「知的廉直」の要請とよばれることがある)。それにもかかわらずシュモラーは、それらを無理に混同しており、二つの事柄の固有な尊厳性を損なう結果に陥っている、という批判である。
シュモラーは、このウェーバーの批判を、価値判断を研究対象から排除しようとするものだ、と解釈したが、それがまったくの誤解であることは明白であろう。
またウェーバーの主張は、価値判断に対する科学の消極的見解である、としばしば誤解されることがある。しかし、ウェーバーは、経験科学は、実践的・政策的評価の領域において、「避けがたい諸手段、避けがたい副次効果、さらにはそれらの事情のために複数の可能な評価が、その実践上の帰結において相互に競合するさま」を示すことにより、つまり政策の技術的批判を行うことにより、価値ある行動のための指示を導出する際の助けとなる、と考えているのである。ウェーバーは、こうした技術的批判こそ、むしろ実践に先だってなされるべきであり、「責任倫理」の当然の前提である、と考えていた。
ウェーバーの主張の、「存在から当為を導き出すことはできない」という立場を、彼はカント主義者のH・リッケルトに負っている。
ウェーバーの主張は、価値判断論争がなされたドイツよりも、むしろ英米の学者によって受け入れられた。A・C・ピグーの『厚生経済学』(1920)に対する批判によって、その後の厚生経済学の展開に決定的影響を与えたL・ロビンズには、ウェーバーの影響が顕著にみられる。また、経済学の生成が自然法および功利主義哲学と密接に結び付いてなされたために、経済学説における事実認識と価値判断との境界があいまいになっている点を学説史的に克明に追究した、スウェーデンのG・ミュルダールにも、ウェーバーの及ぼした影響は鮮明にみられる。
[佐藤隆三]
『M・ウェーバー著、戸田武雄訳『社会科学と価値判断の諸問題』(1937・有斐閣)』▽『G・シュモラー著、戸田武雄訳『国民経済・国民経済学及び方法』(1938・有斐閣)』▽『中村貞二著『マックス・ウェーバー研究』(1972・未来社)』▽『浜井修著『ウェーバーの社会哲学』(1982・東京大学出版会)』▽『牧野雅彦著『マックス・ウェーバー入門』(平凡社新書)』▽『姜尚中著『マックス・ウェーバーと近代』(岩波現代文庫)』